(続き)
今年8.31(日)のNHK-Eテレ「日曜美術館」は『寫実の極致それを慈悲といふ 高島野十郎』と題して放送した。
番組中で、千葉県立美術館館長の貝塚健は、例えば《友禅菊》(1965/エピローグ)を例にこう解説した。
…野十郎は壺に入った咲き誇る菊の花をキャンパスの真ん中に置いた。そして個々の花は殆ど正面を向いていて、人々は次第に絵から見られていると感ずるようになる。
彼は『遺稿ノート』に「表現は凡て暴力(中略)、芸術は自然に直接でなく全く無関係の他物質に表現する暴力、だから美」と書いている。
作意や勝手な思い入れでなく、花とはかくあるべきだと言わんばかり。この背後には仏教と通ずる思いがある。
《蓮華》(1904-09/第4章)は10歳代、明善中学校時代の幼さの残る作品。
仏教では「泥中の蓮」という言葉があるように、蓮は悟りの象徴とされる。
背景にはぼおっと仏塔のシルエットが描き込まれているのが分かるだろうか。池の水面にも映り込んでいる。
野十郎は蓮の花や睡蓮の池も生涯繰り返し描いた。
遺品の中には仏教関連の書物もあり、中には赤い脇線を引いて熱心に読んだあとが見られる。
《春の海》(1952/プロローグ)は有明海の干潟を通して西の方向にうっすらと島原半島の山影を描いている。
西方浄土の象徴として意識的に表現したと思わせる節がある。
翌年の《秋の花々》(1953/第2章)は、おなじ場所を背景にして、まさに夢の「パラダイス」を極彩色で描きだしている。
《月》(1963頃/第4章)は、似たタイトルでもチラシとは違う。木立の枝も雲も一切何もないただただ暗い夜空に浮かぶ満月を描いている。
満月、円は仏教では特別の意味があり、野十郎の「闇を描きたい為に月(光)を描いた」という意味深長な言葉も残っている。また「月は闇に開けた穴」とも。
穴は何らかの世界へ通ずる入り口、野十郎はそれを浄土と意識したかもしれない。
《菜の花》(1965/第4章)。
ぎっしりと画面を埋め尽くす菜の花は全て正面を向いている。
「寫実(写実)の極致は慈悲」、根元の枯葉も土も、あらゆる物に生命を見出す野十郎。
「寫実の極致、やるせない人間の息づき、それを慈悲といふ」。
全てを平等に描く、存在するだけで充分なのだが、画家はそれを描かねばならない、それが「やるせない」と。
役に立たない《割れた皿》(1958頃/第4章)さえも然り。
今月2.1(日)と8(日)の中日新聞朝刊に、前掲の貝塚健による「高島野十郎と仏教」と題する寄稿があった。
併せて読んで頂けたら、芸術家と宗教という分かりにくい問題について、理解が進むものと思う。
[参考資料]
NHK-Eテレ「日曜美術館」『寫実の極致それを慈悲といふ 高島弥十郎』
解説
福岡県立美術館学芸員 高山百合(本展企画担当)
同 西本匡伸
千葉県立美術館館長 貝塚健
演出 山口誉人
放送 2025.8.31
図録『没後40年 高島野十郎 光と闇、魂の軌跡』
執筆 西本匡伸,高山百合,山田敦雄 他
発行 2015.12.20 東京美術
・・・・・・
[付記)
他に「開館30周年記念コレクション展 VISION 星と星図」を駆け足で鑑賞した。
2025.6.21から26.3.15迄の長期企画で、現在はその第3期「星図�掘Г修譴召譴亮詑検廚鯏玄┝�1~5で展開している。
・会期 1.6~3.15
豊田市美術館新規収蔵品の一つゲルハルト・リヒターの《8枚のガラス》(2012)を展示、併せて、特別出品(収蔵品に非ず)として《ストリップ(927-10)》(2012)も観る事ができる。
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