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2025年10月21日11:00

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川上未映子著『夏物語』~2/2

(続き)

他に、自分がAIDによって生を受けた事実を知り、それ迄父だと思っていた人が父でない事でショックを得、実父と会いたいとの苦悩を持つ逢沢潤。
「AIDは"子を産むことが善である"という考えから発展した技術。でも生まれてきた子どもたちはどこに位置付けられるのか、何を守る技術なのか。考えるべき課題の多いテーマ」だと誠実に語る。

同じくAIDによって生まれ、逢沢と交際している善百合子。彼女は養父やその仲間から激しい性的虐待さえ受けて育った。
彼女は当然ながら「AIDもとんでもないし、そもそも産むな」という地点に立っている。
頼んで生まれてきた人はいない、「子どものことを考えて子どもを生んだ親なんて、この世にひとりもいないんだよ」と、産む事そのものが如何に一方的で暴力的でさえあるかを主張する。
百合子がネット上に見つけた「村人の比喩」とは、「十人の子どもはぐっすりと眠っている。そこには喜びも嬉しさもないし、もちろん悲しみや苦しみといったものも存在しない。なにもないの」、「子どもを作るというのは寝た子を起こすことで、十人中一人は死ぬよりつらい苦痛を与えられて生きていくことになるんだ。だからもう誰も起こすべきじゃない」というもの。
生まれてくることは、生まれてくる本人には選択権がない、これは夏子の認識でもあるし、誰しも理解できる論理ではある。
性的虐待を経験した百合子は更に言う、「生まれてきたことを肯定したら、わたしはもう一日も、生きてはいけない」。生まれたことを否定することでかろうじて生きるという矛盾の生。

彼女の到達したイデアは「反出生主義」と言っていい。古くから古今東西の哲学・宗教・文学などで説かれてきたものだ。
例えばエミール・シオラン(1911-95/ルーマニア)著の『生誕の災厄』(1973)。
デイヴィッド・ベネター(1966- /南アフリカ)には『生まれてこないほうが良かった〜存在してしまうことの害悪』(2006)。
他にもアルトゥル・ショーペンハウエル(1788-1860/ドイツ)などの反出生主義者がいるが、ここではタイトルのみの紹介にしておく。

子供を生むという事は果たして善い事か?倫理にかなうのかどうか?
(このフィールドでは出生の増減と経済成長とは関係ない。)
「生まれてこなければよかった」と思う人はこの世に少なくない。
反出生主義でよく使われるこんな比喩がある、生とは「乗りたくもないジェットコースターに乗せられて、嫌なら途中で降りろと言われているようなもの」。
苦しむ子供らを前にして、親からすれば、生の痛みや悩みは充分想像できる筈なのに、何故生んでしまったのか、生まなければ善かった、と気づいてももはや遅い。
善百合子はこうも言う、「一度生まれたら、生まれなかったことにはできないのに」。

様々な立場の人があちこちで様々な事を言う。意識したのは「多声の多層化」、と川上は言っている。
夏子の願い「自分の子供に会いたい」は、揺れ動く。

夏子は逢沢との時間を持つうちに、彼の静かな物言い、人となりを愛するようになる。
逢沢は、大阪に昔あった実家を訪れている夏子に会って言う、「僕の子どもを産んでもらえないだろうか」。だが、すぐに「僕と子どもを」と言い直す。子どもは誰のものでもない。
逢沢はおそらく生涯会えないであろう自分の遺伝子上の父親のオルタナティヴとして、夏子の子と接する事ができるかもしれないと思ったのではないか。それは彼にとって「救い」となるだろうか。

夏子がよくよく考えて出す結論は、逢沢と結婚するのでも彼をライフパートナーとするのでもない、無論苦痛を伴うセックスをする事もない。AIDの精子提供の協力者として逢沢を選び、基本的にはひとりで生んでひどりで子どもを育てていく。
だが、生まれてくる子どもに逢沢を隠すつもりはない。従来の結婚・家庭制度からは自由に、子どもには事実を教え、子どもが会いたい時に、また逢沢が会いたい時に、会う事ができるようにしよう。
子どもと逢沢の関係は、少なくとも戸籍法上の父たりえない。これはまだ名付けられていない関係性かもしれない、困難な道かもしれない。
反出生主義者からは「身勝手な賭け」と言われるかもしれない。

最後は分娩室の場面、陣痛の果て、真っ赤な体で大声で泣く小さな赤ん坊を胸に抱く夏子。
真っ白な光が射すが、その女の子がどう育っていくか、誰にも分からない。
夏子は感動に浸りながらも、彼女を見つめて思う、「その赤ん坊は、わたしが初めて会う人だった。思い出のなかにも想像のなかにもどこにもいない、誰にも似ていない」。
赤ん坊は生まれ落ちた時から誰のものでもない他人である事を夏子は意識している。

川上未映子は2011年に再婚、翌12年、35歳で男児を出産している。
彼女は言っている、「むしろ謎は深まるばかり。今も考え続けています」。


〈参考〉
・「文学界」川上未映子インタビュー(2019.12.5)
「生む/生まない、そして生まれることへの問い」
 聞き手 鴻巣友季子

・中日新聞書評「書く人」~『夏物語』
 執筆 樋口薫
 発行 2019.7.28、中日新聞朝刊
 
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