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2026年06月28日19:00

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NHK-BS「英雄たちの選択」 出雲の阿国の実像~3/end

(続き)

・時代は常に新しいものを欲す
一方、公家達の間では、遊女による能という新しい芸能への興味も高まっていた。
阿国の支援者である近衛信尹が、北野天満宮で女能を演じていた「浮舟」なる人気遊女を禁中に呼び寄せたという記録が残っている。
『北野社家日記』1605(慶長10)年2/14の項、「近衛様より浮舟方へ 禁中御能 廿一日にて候」。

大ブームとなった出雲の阿国だが、ずっと同じ演目では歌舞伎踊りも次第に飽きられていく。
ある商人が書いた日記『慶長自記』、1604(慶長9)年10月の項、
「かぶきの開山にて天下一のよし、申候へども、一日二日見候ものは何も見あき申候、毎日同じ事斗(ばかり)を致したる故、人の見あき候も尤(もっとも)に候」。
京における阿国興行に陰りが訪れた。

・その時の阿国の心境は?
京の都では私の踊りが飽きられ、遊女による舞や踊りが興味を惹くようになってしまった。一座の中には京を離れ、新たに幕府が開かれた江戸に行き、そこで踊りを披露しようと主張する者もいる。まだ見ぬ新天地江戸なら歌舞伎踊りにも新たな道が開けるのではないか?

しかし、江戸行きが本当によいだろうか? これ迄女院様・近衛様など高貴な人々に贔屓にしてもらった。北野天満宮では常設舞台も造らせてもらっている。京は慣れ親しんだ場所、人々によく知られたここで新しい芸を打ち出していく方が良いのではないか?

・当時の江戸はどんなところか?
磯田「江戸は勃興期。関ヶ原合戦の頃の江戸は人口5万人程、10万人にも届かない。それが元禄期の100万人に向かってどんどん大きくなっていく。巷は建設ラッシュ。」

奥平「放浪は芸能民の生理でもある。一番繫栄していく所へ向かおうとするのは必至。」
同「ただ、成功はしないだろう。専らかぶき者を演じてきたが、かぶき者は徳川幕府から目の敵にされ、取り締まられていく。何十人も一度に処刑されたケースも。
かぶき者の言葉に、親兄弟よりも、主よりも、仲間!(が大事)。仲間を大切にするが故に主人を刺し殺したという事件も起きた。
幕藩体制を整えようとしている幕府にとってこれは許しがたい。

一方、京都は豊臣贔屓、阿国一座は舞台上で徳川幕府に対しキワドイ事も言っていたろう。それがウケたという実態もあった。だが、それは江戸幕府のお膝元ではできない。」
磯田「新天地へ行こうという気持ちは強かっただろう。しかし、江戸ではウケない。役者というのは規制が生じたり、ウケなかったり、失敗すると、それをバネにする生きもの。個人的には、それを期待したい思いもあるが…」
中村壱太郎「挫折した時程新しい芸が生まれる。歌舞伎の数々の名優もそうした時に生まれてきた。」

・阿国の実際の選択は?
彼女の選択を記した史料がある、『当代記』1607(慶長12)年2/20の項、
「国という歌舞伎女、江戸に於いて躍(おどる)」、先日能の行われた場所で「勧進をす」。
「見る者如市」。まるで市のように賑わった、と。

山��「江戸は建設ラッシュの大変な発展途上だが、文化的にはまだ未熟で、文化に飢えていた。」
同じ書にこんな記述もある、「(第2代将軍)秀忠公は終に見給わず」。
賑わいは一時のものだったのか、この記述のあと阿国の消息はパタリと途絶える。5年間、彼女の足取りは掴めない。

阿国の名が再び記録に現れるのは、北野天満宮に仕える僧侶の『北野社家日記』1612(慶長17)年1/13の項、
「国、同道にて御出也、当坊にて振舞出、謡舞有之」。
同年3ヶ月後の4/13には、『言緒卿記』(東大史料編纂所所蔵)に、阿国と思われる一座が「女院御所へ参了 終日歌舞伎有之了」。

◆「遊女歌舞伎」の台頭

久しぶりに京に戻った阿国、しかし、京では強力なライバルが台頭、阿国の歌舞伎踊りを真似た「遊女歌舞伎」が人気を博していた。
《四条河原遊楽図屏風》(個人蔵)
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舘野「京には公共の遊里があり、その妓楼遊女屋が出張して四条河原に小屋を建て、抱えの遊女を踊らせた。そこでは、毎日のように、美しく且つ芸をする遊女達を見られる。」
舞台では何人もの遊女が舞い踊り、左端には琉球から伝わったばかりでまだ珍しかった三味線が並ぶ。贅沢で派手な舞台は忽ち人々を魅了した。

・阿国歌舞伎と遊女歌舞伎の違い
『慶長見聞集』には「五十人六十人好色をことゝして、かぶき踊りて一同に袂をかへす扇の風に、匂いは四方に芳しや」。
『小槻孝亮宿禰日次記取要』には「数万人群衆驚目者也」。

舘野「遊女歌舞伎の方が(阿国歌舞伎より)ハデ、人数も多い、賑やか、観客は結構とられてしまったろう。」
奥平「一番違ったのは音と匂い、三味線と伽羅の香だろう。遊女らは扇に香を焚きしめ、それをあおぐと、客席に迄その香が届いた。」

《四条河原遊楽図屏風》の左下をクローズアップ。
男が担いでいるのは「はな」と呼ばれた届け物。
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黒く小さな円形で穴が開いた物が多数ぶら下がっているが、これはおそらく寛永通宝一文銭。
奥平「棒に挟んである紙は(プレゼントの)目録。それを舞台上の男が受け取ろうとしている。紙には推しの遊女の名が買いてある。」
壱太郎「遊女の本業、夜の商売のプロモーションにもなった。弦楽器(三味線)が入ったのは大きな効果だった。」

遊女歌舞伎の人気に押されていった阿国。
その後も禁中で歌舞伎が催されたという記述はあるものの、阿国のそれかどうか定かでない。

1615(慶長20)年、大坂夏の陣、豊臣家滅亡。時代は大きな節目を迎える。

◆豊臣家滅亡後の阿国

阿国が生まれたとされる島根県出雲市大社町。晩年、阿国は故郷に戻り、尼として余生を過ごしたと伝わる。
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同町、出雲大社の西にある安養寺の住職 原量敬が寺に伝わる阿国が使ったとされる数珠と鏡を見せて言う、
「鏡には桐の紋と”天下一”のマークが入っている。」
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桐は豊臣家の家紋。鏡は阿国が豊臣家から与えられた物かもしれない。
同住職「出雲は皆阿国の事を大事にしている。青年団の芝居なども阿国に親しみを持ってやっていた。」

阿国が晩年を過ごしたと伝わる阿国寺の連歌庵は、安養寺と出雲大社の間にある。
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没年は確かでなく、75歳とも87歳とも、長寿を全うしたと伝えられる。

阿国の確かな記述が途絶えて数十年後、寛永期(1624-44)の頃、遊女歌舞伎が禁止された。観客同志の喧嘩の頻発が尤もそうな理由。
その後、歌舞伎は成人の男だけが演じる、いわゆる「野郎歌舞伎」となり、現在に迄続いている。
歌舞伎の見せ場となる「見得(みえ)」、この原型は阿国が舞台で見せて、屏風に描かれたあのポーズだとされる。

・「秀忠公は終に見給わず」について補足
磯田「徳川の家臣達(官僚)は皆、将軍が阿国歌舞伎を見るかどうか固唾を呑んで注目していただろう。
そして、結局、秀忠公が見ない事を彼らは確認、それが世の趨勢となっていく。
徳川政権と豊臣政権と違うところ、豊臣は娯楽・芸能の提供を政権の使命としていた節がある。どんな戦場でも舞台を作り、皆で芸能を愉しむなどして熱心だった。しかし、徳川は戦場でそんな無駄はしない。
世にある政権には2つのタイプがある、娯楽・芸能の提供を大事だと思う政権と、それらとは距離を置くべきと考える政権。
秀忠みたいな真面目で融通が利かない人物が将軍になると、阿国もそうだったが、芸術や芸能はやりにくい。」

その後、遊女歌舞伎も結局幕府に禁止される。女性が舞台に立つ芸能はなくなってしまう。
磯田「1640~60年の20年間で、幕府は急速に儒教化する。儒教倫理では、女性は目立たず、家の奥にいるもの。人前で芸能などもってのほか。」
壱太郎「豊臣から徳川の世に移る時代に阿国が始めた歌舞伎含む歌舞音曲は、何かしらの形で残っていった。阿国の活躍がなければ、何れも消えていってしまったものだろう。阿国自身は、晩年、世の表から去っていく事となったが、その形は残った。阿国は歴史を画するパイオニアだった、最後は悲しい思いをしたろうが。」

奥平「ただ、絵はたくさん残った。何でこんなに絵が残っているのかというと、私は”永遠のインディーズ”と言っている。メジャーにはならなかったが、そのマイナーなところがいい。だからのちのち迄語り継がれ、描き継がれた。」
壱太郎「阿国らが発した過激な言葉や歌、踊り、そのため歴史史料に書かれなかったという側面はある。しかし、危険な事にも挑戦したからこそ私達のヒーローであり続ける。まだこれから深める事ができる人物ではないか。」

磯田「生きるって事には日常と非日常があって、退屈な日常から、何かがきっかけで感動のある非日常の時間を経験しないと深く生きたと思えないのが人間という生きものらしい。退屈な日常から感動のある非日常へ連れていく、それをやった人の苦闘の歴史を今日は確認できたと思う。過去の芸能が未来の芸能を生む。苦しみながら表現しようとする人達がいて、それは必ず、苦しんだ分未来の感動の種を撒き続ける事になる。」

 ディレクター 鈴木敬
 放送 2026.6.22、NHK-BS
 
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