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2026年06月27日19:00

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NHK-BS「英雄たちの選択」 出雲の阿国の実像~2

(続き)

◆出雲の阿国とは何者か?

佐渡は江戸時代初期、金山で栄えた。
佐渡にある妙法寺は400年の歴史を持ち、《洛中洛外図屏風》が伝えられている。
住職 小瀬修達「1743(寛保3)年、当時の檀家が京都で買い求め、北前船に乗せて持ってきて奉納した。」
左隻第1扇に北野天満宮が描かれ、本殿の下には阿国歌舞伎の舞台小屋。幕には「天下一」「対馬守(つしまのかみ)」と大書されている。
「対馬守」とは阿部重次(1598-1651)か? 大坂夏の陣で戦い、徳川家光時代に老中も務めた人物だが、番組でその確認はしなかった。
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ステージのクローズアップ。中央が阿国らしい。
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同「慶長年間の記録書に、出雲の阿国は歌舞伎の開山、歌舞伎の和尚、歌舞伎の創始者として天下一の称号を受けた、と。」
「天下一」はその道最高の者に時の権力者が与える称号。

阿国は後陽成天皇の生母 新上東門(しんじょうとうもん)院、のちの関白 近衛信尹(のぶただ/1565-1614)らに贔屓にされた。
戦乱ののちに現れた芸能を、トップレベルの文化の目利きである宮廷人がバックアップし、京の人気者に押し上げたと伝えられる。

阿国の名が確かな記録に現れるのは、関ヶ原の合戦と同年の公家の日記『時慶卿記』、1600(慶長5)年7/1の項、
「近衛殿にて晩まで雲州のやゝこ跳(おどり)、一人はくにと云、(もう一人は)菊」
幼い阿国は、最初歌舞伎踊りでなく、出雲の「ややこ踊り」で皇族や公家の間で人気になっていた。

《歌舞伎図巻》
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「ややこ踊り」とは幼い少女による踊り。大人の恋の歌に合わせて踊る姿は、『多門院日記』1582(天正10)年5/18の項に、「いたいけに面白云々」とあり、評判になった。
度々御所や公家屋敷に招かれ、時には春日大社の拝殿で披露された。阿国もその中の一人。
幼い頃より踊りの才能を発揮。しかし、この事は阿国の出自について1つの疑問を投げかける事となった。

・阿国出自の謎
《國女(くにじょ)歌舞妓繪詞(えことば)》(慶長末期~元和期/京都大附属図書館所蔵)には「いづもの国大やしろ、くに」とある。
ただ、阿国が出雲国の巫女であったというのは、あくまで本人の名乗りによるもので、実際は出雲ではなく京近くの生まれではないかと考える人達もいた。

ビデオ出演 山��裕二(元島根大特任教授)は出雲出身の阿国研究家。
阿国の出身地について、
「京都、奈良辺りという説が非常に有力だった事がある。特に京都は芸能が盛ん。
文化は中央から地方へ下るという(偏った)考え方に基き、田舎から芸能が京に出てくる事はまずない、というのが定説だった。」
阿国程の踊りの名手は代々芸を伝える家に生まれなければならない。そんな文化的背景は京都近辺にしか存在せず、阿国も本当は京都周辺の出身と考えるべきだとするのである。
阿国は出雲の国の巫女ではなかったのか?

阿国が出雲出身なのなら、「ややこ踊り」のような子供の芸能も出雲に存在しなければならない。
山��はそれを裏付ける資料を見つけた。
『中書家久公御上京日記』(東京大史料編纂所所蔵)の1575(天正3)年の項に、薩摩の戦国武将薩摩家久が出雲に近い石見の国温泉津(ゆのつ)を訪れた時、子供の芸人一座が出雲から来たと記している。
「出雲之衆男女、わらはへ(童達)あつまりて、能ともなし神まいともわかぬ舞 歌いたるを見物」。

山��「出雲大社にお参りに来る人達の慰みに芸能を提供したという事が考えられる。そういう一座で阿国は小さな頃から訓練を積んでいた。」
出雲大社の周辺は多くの参詣客で賑わうだけでなく、近くの石見銀山からとれる銀の取引などで商業も盛んだった。そのため、出雲を訪れる人々は非常に多く、彼らをもてなす芸能の需要も大きかったし、高い質も求められたと考えられる。
同「中で腕に自信がある人は京都へ出かけていったろう。京都は出雲より更に需要が大きい。一旗揚げようとする人達が京都へ行くのは自然の流れ。」
磯田「中央から地方へというのはハイカルチャーの流れ。庶民の芸能のようなポップカルチャーなど、地方から都へ上がる流れは別に存在する。」

島根県出雲市大社町では、阿国はこの地の中村家の生まれであると伝えられてきた。地域では専ら「中村阿国」と呼んだ。
古くからこの地に伝わる巫女に扮した少女達による神楽「八乙女」は、「ややこ踊り」の性格を有する。今も地元の子供達が練習を積み重ね、出雲大社へ奉納している。

・阿国に発生した問題
いたいけな少女が舞うから魅力がある「ややこ踊り」。阿国は成長するにつれて行き詰る事となった。
1600(慶長5)年の『時慶卿記』の記録から3年間、京で「ややこ踊り」が踊られたという記述はない。
『慶長見聞録案紙』には、「於国という太夫、佐渡へ渡」とある。
一説では、関ヶ原の合戦の直前、戦乱を避けて地方巡業の旅に出、佐渡にも渡ったと言われる。

再び阿国の名が歴史に現れるのは3年後の1603(慶長8)年。この時阿国は「ややこ踊り」ではなく、新らしいものを生み出して京に登場する。
その舞台の様子が描かれている《國女歌舞妓繪詞》。
場面毎に絵と詞書が付いているので、阿国歌舞伎研究にとって重要な史料となっている。著者・絵作者不明。

それに従って見ていくと、
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阿国は民衆に親しまれていた念仏踊りを舞台に上げた。左手に鉦、右手にそれを打つ撞木を持っているのが見えるだろうか。
念仏に引かれ、観客の間から喧嘩で斬り死にしたばかりの伊達男 名古屋山三郎(1572-1603)(*)の亡霊が「我も昔の御身の友」と言って登場する。
 (*)戦国時代、尾張に生まれた美少年、武芸・茶の湯・和歌に精通。阿国の夫と言われる事もある。

昔馴染の阿国と山三郎は舞台上で茶屋の女将を口説く踊りを始める。
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死んで間もない現実の有名人を登場させるという設定、観客の間から役者が登場するという演出。更には猿若と呼ばれる道化も使った。幕のない舞台において、猿若は場面転換の司会役を務め、様々な物真似も披露して主役達を囃し、観客に筋書きを伝え、舞台への注目も促した。
舞台上、一番右にいるグレーの衣装が猿若。
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阿国の舞台は、踊り中心から次第に物語のある演劇へと進化していったように見える。

奥平「言葉の面白さ、互いの掛け合いで即興性が生まれ、韻も踏みあう。今のラップに近いような要素も。」
磯田「解りやすさも大事。猿若という解説者の効果は大きい。庶民には、分かりにくいものはなかなか広がらない。」
奥平「猿若は道化でもあり、笑いの要素も加わった。」
磯田「笑わせ、分かりやすく、きれいでカッコいいとくれば、お客は来る。エロチックな側面もあったに違いない。」

・公家達のあと押し
阿国の芸を贔屓にして、スーパースターへと押し上げたのが、朝廷の公家達。
磯田「公家らは自身宮中行事で踊る事も多い。舞う事で天下泰平、五穀豊穣を呼び寄せるのは彼らの仕事のうち。公家はいわゆる見巧者(みごうしゃ)である。」
奥平「京では特に公家と芸能は近い。(前掲の)近衛信尹など、詩歌を大きな屏風に大きな文字で早書きしたものが何点か残っている。公家らは芸能への理解が深かった。」

・秀吉の七回忌、豊国大明神臨時祭礼
阿国が京都で大人気になった翌年、京で大規模なイベントが開かれた。1604(慶長9)年、豊臣秀吉の七回忌、豊国大明神臨時祭礼だ。
その様子を狩野内膳が描いた《豊国祭礼図屏風》(六曲一双/豊国神社所蔵/重要文化財)。
以下その左隻全図。
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方広寺山門前で何百人もの町衆がいくつも輪を作り、踊りに熱中している。輪の内にいて刀を担いでいる、緑色の服の女は阿国ではないか? またはその模倣者か?
豪華な飾りの笠鉾。派手な衣装。奇抜な仮装の数々。これは予定外で御所でも披露される事となった。
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(伝)岩佐又兵衛作とされる同題の見事な図屏風(六曲一双/名古屋徳川美術館所蔵/重要文化財)があるが、そちらは秀吉十七回忌のために作られと考えられている。

(続く)
 
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