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2026年05月11日12:40

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NHK「世界 わが心の旅」米原万里『プラハ 4つの国の同級生』~1

5/8(金)、池上彰がナビゲーターを務めるNHK総合の「時をかけるテレビ」を見る。
今回はNHK-BS2が放送したドキュメンタリー番組「世界 わが心の旅」のシリーズから、1996年の『プラハ 4つの国の同級生』が採りあげられた。

当時ロシア語同時通訳の第一人者として国際的に活躍し、ゴルバチョフやエリツィンからも信頼篤かった米原万里(よねはらまり/1950-2006)。後年、文筆家としても人気が高かったが、56歳という若さで亡くなった。今年は没後20年になる。

彼女は1959~64年、人間形成に最も大事な9歳から14歳にかけて、チェコスロバキア(当時)のプラハの学校で学んだ。
そこで友情を培った3人の友達、彼女らは皆国籍も民族も違う。
卒業後31年、万里はもう一度会いたいと思い立ち、1996年にプラハへ出かけた。その旅を収めたドキュメンタリーである。

万里がプラハで過ごしたのは東西冷戦の時代。改めて出かけた1996年は、ベルリンの壁崩壊、ソ連の共産党体制が倒れ東欧諸国が解放され自由に行き来できるようになって間もない時代である。

万里がプラハで学んだ学校はソ連大使館付属ロシア語学校で、西側の認定はなかったろうが、インターナショナルスクールと呼んでしかるべきものだった。
万里の父 米原昶は日本共産党の幹部で、国際民主連盟書記局となってプラハに赴任する事になり、万里と妹ユリも含め一家で出かけたのである。同様の境遇によってプラハの学校で学ぶ事となった子供達は、ソ連,ハンガリー,ルーマニア,ユーゴスラビア,アルバニア,ベトナム,日本他50ヶ国もの国々から来ていて、多様な文化を交流する事が可能だった。
1学年に1クラスのみ、27人の児童で構成され、授業はロシア語を共通語として行われた。
現代、ウクライナ侵攻をしたロシアが子供達を拉致して行っている同化教育とは全く違う。

万里が特に仲良くなった同級生は、ルーマニアから来たアナ・ザハレスク、ユーゴスラビアから来たヤースナ・ディズダレービッチ、ギリシアから来たリッツァ・パパドプロだった。
卒業後、東欧はそれぞれ激動の時代に入り、万里は彼女らと連絡を取りあう事すらできなくなった。会いたくなればいつでも簡単に会えると思っていたのは大きな間違いだった。
例えば、チェコスロバキアは、4人が別れて4年後の1968年、自由化を求めようとする「プラハの春」の潮流に対し、ソ連は戦車を送り込んで蹂躙した。ユーゴスラビアは1991~2001年の紛争で解体され、独立したボスニア・ヘルツェゴビナでは翌1992~95年の間激しい民族紛争が続いた。

1996年、万里はプラハ経由でルーマニアに向かった。
卒業して別れる際絵本にした寄せ書きに、アナ・ザハレスクは首都ベオグラードの実家の住所を書いていた。
1971~89年の間、チャウシェスクが独裁を行った巨大な「人民宮殿」の前を歩く万里。宮殿の照明を全部点けると、ベオグラードの民家の半分は停電になったと伝えられる。
独裁政権が倒れたあと建築を放棄されたビルがあちこちに見られた。

アナの愛称は「アーニャ」、「愛すべき空想家」そう万里は当時の彼女を呼んでいた。
4人が別れて4年後、アーニャが外国人と結婚したという話が間接的に万里の耳に入った。
万里には、ルーマニア人が外国人と結婚するなど、当時の体制下でできるとは思えなかった。

警官(?)が周囲を見回るアパートに、建物全体の撮影をしないとの条件付きで入る事を許可され、1室のチャイムを鳴らして出てきた老夫人はすぐ万里が分かり、笑顔で彼女を抱きしめた。家族付き合いがあったのだろうか、夫(当時89歳)も夫人同様にこやかに応対してくれた。
当時、アーニャの父は政権幹部で外交官をしていた。お抱えの運転手と家政婦がいた事を万里は思い出す。美味しい物も出してくれた。今は年金暮らし。
アーニャは英国人と恋をして結婚、今はロンドンで暮らしているとの事。
あの頃によく外国人と結婚ができたと問うと、国家最高機関の許可が必要だったとの事で、父がチャウシェスクに頼み込みに行ったと言う。
ロンドンのアーニャの電話番号を教えてくれたので、万里はその場で電話をかけた。
声ですぐに万里と分かったアーニャは、今はたどたどしいロシア語で、会いたい、数日後プラハに行く、と。

アーニャに会う前に、万里はヤースナ・ディズダレービッチを探す事にした。
ヤースナは冷静で優等生だった印象がある。彼女は寄せ書きに旧ユーゴスラビアの住所を書いていた。
万里はルーマニアのブカレストから新ユーゴスラビア連邦(当時/現セルビア
)の首都ベオグラードに夜行の寝台列車で移動する事とした。飛行機は日に1本しかなく、寝台列車が一番早い事が分かったからだ。ブカレスト~ベオグラード間は約600km、夜23:30に出ると、翌朝9:00頃国境を越え、11:00に到着。

当時、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992~95)は終結したばかりだった。到着したベオグラード駅周辺は、戦闘地から離れており、平穏のように見えた。
4年前、民族紛争が激化し、旧ユーゴスラビアは5つの国に分割された。旧ユーゴスラビア統治時代は気にならなかった民族・人種なるものが問題となり激しく対立し争い合う事となった。
万里は、寄せ書きに書かれたヤースナの文章の内、読めない部分がセルビア・クロアート語と推測し、彼女はセルビア人と思い込んでいた。
ベオグラードの6割はセルビア人だという。

万里はヤースナの書いた住所のアパートを訪れたが、ディズダレービッチ名の部屋はなかった。
アパートの住人に訊くと、その家は確かにあったが、数年前にボスニアのサラエボに越していった、父はサラエボ出身で外務省に務めていた、と。ヤースナ一家はボスニアのムスリム人だったのだ。
一番危険な地域にヤースナ達が引っ越していったと聞き、万里の表情は険しくなった。

ベオグラードで唯一のイスラム教会に行ってみたが、知る人はいない。
古い紳士録(1970年版)を調べると、父親の勤め先が掲載されており、やりとりからヤースナ達は今もベオグラードにいる事が分かった。
早速電話してみるとヤースナが出た。万里が今こちらにいるのだと言うと、彼女は会いたい、でも細かい取材は無理だと言う。

ホテルで待ち合わせをする事となり、きっと太った女性がやってくるに違いないと万里は想像していたが、ヤースナはほっそりしていた。
抱き合い、そして古いアルバムを見て会話ははずんだ。ヤースナは一男一女の母親だった。
ヤースナは言った、両親は確かにサラエボに移った。彼らはムスリムに間違いないが、私はムスリムとして育てられていないから、意識した事がない。勿論ムスリムを否定したりはしないけれども。人間がアイデンティティを持たない事は良くないかもしれない、でも私は国への帰属意識は持っていないし、その事で不幸だと思ってはいない。私はどうでもいいの。
ヤースナはカメラの前でこれ以上語れないといった表情となった。

ヤースナは万里を自分のアパートに招き、事情を2晩話し続けたとの事。
万里が彼女から聴いたところによると「今彼女は新ユーゴスラビア連邦(当時)に住んでいて、ここの主たる民族はセルビア人。非セルビア人である人達にとっては住みにくくなっている。」
父親はサラエボで水の出ない住居に住んでおり、生命の危険を感じている。ヤースナはある国際機関で働いていたが、ムスリムを理由に職を失った。ぎくしゃくとした人間関係が彼女を追いつめている。
「彼女は、なるべく目立たない、周りの人にとって”空気のような、いるかいないか分からない存在”になりたい、そう言っている。自分の民族性を意識していなかった人々が、紛争になると、否応なくそれを感じさせられてしまう。」

1968年のソ連のプラハ侵攻時、ヤースナは18歳だった。ヤースナは同級生達と、ソ連の行動に反対する学生運動に身を投じた。
自分達が学んだプラハへのソ連侵攻を知った時、万里は日本にいて1週間泣いて暮らした。

(続く)
 
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