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2026年03月14日20:00

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NHK「映像の世紀」『将軍ルメイ 「悪魔」と呼ばれた男』��

(続き)

そして、第21爆撃軍司令官として白羽の矢が当たったのが38歳のルメイだった。ドイツ戦線,中国戦線と、常に結果を出し、当時最年少の少将となっていた。
アーノルド「この仕事には経験と知識、判断力を持つ人物が必要だったが、同時に鋼のような冷徹さも持ち合わせていなければならなかった。私はカーティス・ルメイを選んだ。」
アーノルドはルメイにある指令を与えた、「精密爆撃を凌駕する唯一の手段は大規模な焼夷弾攻撃(Incendiary attack)だと確信している。」 (アメリカ陸軍航空軍命令書1945.2.12より)
家を焼き人を焼く焼夷弾、精密爆撃の理想を捨て、市民を巻き込む無差別爆撃への転換だった。

アーノルドは空軍独立を果たすための決定的な成果をルメイに要請した、「結果を出さなければ空軍も実現しない。君の結果次第では、最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、更に50万人のアメリカ兵の命が失われる事になる。」(アメリカ陸軍航空軍の指令より)

ルメイは日本上空からの偵察写真を丹念に読み解き、ある事実に気づく。ドイツでは無数にあった高射機関砲が殆ど見当たらない。
ルメイ「高射機関砲がない事に気づいた時、自分の中で"これだ"と確信した。気圧を調整し、B29を限りなく低く飛ばせるようにした。」
高度を下げればジェット気流や雲をかい潜り、命中精度を高められる。ルメイは、一気に1,500m迄高度を下げ、高射砲や戦闘機による迎撃の少ない夜間に爆撃するという作戦に辿り着いた。

米軍の記録映画『ラストボム』(1945)。
1945.3.9夕方、サイパンとテニアンの基地から325機のB29が飛び立った。できる限り多くの焼夷弾を積み込むために余分な装備は取り外した。
上空の無線師達の耳に、アメリカのポップソングが届いた。発信源は連合国に向けプロパガンダ放送を行うラジオ東京。DJの東京ローズが大人気だった。
のんびりしたメロディ、その歌詞の日本語訳「この世界を燃やしたい訳じゃないの、ただあなたの心に火を灯したいだけ…」。
B29のパイロットだった男の言葉、「"東京ローズが今かけている曲、信じられないぜ!"と仲間が言ってきたので、俺はすぐにチャンネルを合わせた。流れてきた歌を聴いて、思わず、"すごいな!まさか俺達が(今夜)焼夷弾で攻撃しようとしているのを知らない筈だよな?"と声を上げたんだ。」

その時B29に積まれた焼夷弾は32万発に上る。
真夜中に決行された東京大空襲、写した映像はない。残されているのは、焼夷弾に焼かれた下町の写真だけだ。
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B29のパイロットの言葉、「街が燃えているのを見た時、地獄の入り口を覗き込んでいるような気がした。あれ程巨大な炎は想像する事すらできなかった。」
同「人間や動物の肉が燃える臭い、家や材木が燃える臭い、あらゆる臭いが混ざり合っていた。」
その1夜に10万以上の命が奪われ、100万人が家を失った。
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焼夷弾投下はそれで終わらなかった。ルメイはその後も大都市を焼き払い続け、60以上の地方都市に爆撃を行っている。
犠牲者は最終的に26万人を超えた。
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ルメイ「とにかく限りなく早く爆撃した。日本軍が対策を考え反撃してくる前に徹底的にやりたかったのだ。」

彼のもとへやってきたのは、作戦立案に携わった陸軍統計管理局中佐ロバート・マクナマラ、のちのアメリカ国防長官である。
あまりにも多くの命を奪った罪悪感にマクナマラは苦しんでいた。
マクナマラ「戦争で勝つためなら、ひと晩で10万人の市民を殺していいのかどうかだ。ルメイの答えは"イエス"。マクナマラよ、日本人ではなく数万のアメリカ人に死ねと言うのか?と彼は言う。しかし、67の都市の50~90%もの人々を殺し、尚且つ原爆を投下するのは明らかに割に合っていない。戦争では目的と手段が釣り合っていなければならないのだ。」

1945.8、日本は無条件降伏。アメリカを勝利に導いたルメイは英雄となっていた。
1945.8.13「TIME」誌、葉巻を加えた仏頂面のルメイが表紙を飾った。
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誌面には若き将軍への賛辞が溢れた。「鉄の信念を持つ男」「長距離飛行男」「替えがきかない男」など。
下は、終戦後、焼け野原となった日本の都市を、チャーター機の窓から小型カメラで動画を撮ろうとしているらしきルメイ。
彼の目に、日本中の都市の惨状はどう写ったのだろうか?
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ルメイ「その瞬間から私は力によって平和を保つ事ができるのだと信じるようになった。もし我々がよく訓練され、その大義に献身的な軍を作り上げられたのなら、誰も二度とアメリカを攻撃しようなどと考えないだろう。」

太平洋戦争終結の2年後1947.9、陸軍航空部が遂に悲願の独立を果たし、アメリカ空軍が誕生した。
翌1948、ルメイは核兵器を扱い、世界の基地を動かす戦略空軍司令官に就任する。
日本を焼き尽した男が今度は世界の核を握る事になったのだ。
ルメイ率いる戦略空軍が掲げたモットーがある、平和こそ我が職務。核を背後に置き、敵に攻撃を思いとどまらせ、力による平和を目指す。

しかし、その平和は長くは続かなかった。
1950.6、朝鮮戦争勃発。アメリカとソ連、核を保有する大国同士が初めて衝突した。
ルメイは、ソ連や中国への核攻撃の計画を作り上げた。
しかし、全面核戦争を怖れたハリー・トルーマン大統領(当時)は、朝鮮戦争における核の使用を一切認めなかった。言う迄もなくトルーマンは広島と長崎に原爆投下を指示した男である。
核の代わりに選ばれたのはやはり焼夷弾による無差別爆撃だった。
挑戦半島の殆どの都市が焼き尽くされ、南北で100万もの民間人が犠牲になったと言われる。
アメリカ軍も3万以上の死者を出しながら、3年以上戦った。しかし、決着はつかないまま、1953、休戦協定が結ばれた。
ルメイ「私は必要以上に軍事力を使う事よりも、必要とされるだけの軍事力を使わない事の方がよほど非道徳的だと考える。必要とされるだけの軍事力を使わないと戦争を長引かせるだけで、長い目で見れば、数多くの人間を殺す事になるのだ。」

1955、1本の映画が公開された。
『戦略空軍命令』は、冷戦下の世界平和を守る戦略空軍の隊員達の任務を描いたハリウッド映画だ。
映画を企画し主人公を演じたのはアカデミー賞俳優のジェームズ・スチュアート。且つて、陸軍航空軍のパイロットでルメイとも顔見知りだった。戦略空軍は製作に全面的に協力。
人気ハリウッド俳優を迎えた映画は大ヒット。ルメイ率いる戦略空軍の知名度と人気はアメリカ中に広がった。

そして、1961.7、ルメイはアメリカ空軍参謀総長に就任。遂に空軍のトップに昇り詰める。
就任式でのケネディ大統領(当時)のスピーチ、「彼は戦略空軍をアメリカ合衆国の偉大な盾として発展させる上で、極めて重要な役割を果たした。アメリカ空軍の新参謀総長として、また統合参謀本部のメンバーとして、あなたを歓迎できる事を光栄に思う。」

しかし、その翌年1962.10、世界を震撼させる事態が起こった。
ソ連がアメリカの喉元キューバに核ミサイルを配備していた事が判明。アメリカは直ちに海上封鎖を宣言、ソ連との全面核戦争の瀬戸際に立たされた。
ルメイはソ連への先制攻撃を主張、核の使用も視野に入れていた。

これはその時のホワイトハウスでの会話である。
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左ルメイ、右、J・F・ケネディ。
ルメイ「他に解決策はありません。今すぐ行動に出るできです。海上封鎖や政府間協議は同盟国や中立国の多くに弱腰と対応と映るでしょう。アメリカ国民にとっても同じです。」
ケネディ「何だって?」
ルメイ「大統領は窮地に陥っているのです」
ケネディ「それは君も同じだ」

よくこんな録音が遺っていたものだ。

若き大統領に先制攻撃を強く迫るルメイの前に立ちはだかったのは、且つての部下マクマナラだった。その時は国防長官になっていて、組織の上ではルメイの上司となる。
マクナマラ「ルメイならキューバに侵攻し決着をつけていただろう。だが、核兵器では限定的な戦争など不可能だ。完全に容認できない。たとえ僅かな核兵器に限っても、狂気の沙汰だ。」

アメリカとソ連はギリギリのかけ引きの末、破滅へ向かう事態をかろうじて回避した。

しかし、その後もルメイは言い張った「これは敗北です。今からでもキューバに侵攻すべきです。」
ケネディ「打って出るべき時には先頭機をルメイに任せたい。だが、打って出るべきか否かの判断はルメイに任せたくない。」

(続く)
 
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