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2025年12月13日13:00

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NHK-BS「英雄たちの選択」~『権力奪還へ!秀吉七回忌、淀殿の秘策』~2(加筆)

(続き)

秀吉がなった「関白」職とは何だったのか? 簡単に再確認すると、
…成人した天皇の補佐役。朝廷では最高の官職。
武家として初めて関白になったのが秀吉。2代目は甥(姉の長男)の秀次(1568-95)。(いわゆる「秀次事件」で、出家、蟄居の上切腹させられた。)
秀頼が成人したら、当然3代目の関白に就くとの理解が公家ら内部にはあった。関白職は豊臣家にある、と。
秀吉が公家達の窮状を救った、という恩義が彼らには大きかったのである。
ところが、1603(慶長8)年2月12日、家康が征夷大将軍に任命される。
秀頼は内大臣に昇進したものの、関白にはならなかった。
その後、淀殿は憂鬱で食欲なく眩暈もするとの状態が続いた、という史料が残されている。期待と落胆のギャップのせいだろう。
大坂城に関白秀吉の遺児秀頼、伏見城に征夷大将軍家康、天下人が2人いるという奇妙な時代。「二重公儀」とも呼ばれる。
関白と征夷大将軍では、関白の方が位は上。関白は、天皇と相談して将軍を任命する立場にある。…

淀殿は、秀頼を関白にするための秘策を進める事になる。
1603(慶長8)年、秀頼、東寺金堂を再建。
戦国時代に荒廃した寺社を復興させる事で、豊臣の権力を示し、人々の心を掴もうとしたのだ。
他に、醍醐寺,相国寺,南禅寺,鞍馬寺,北野天満宮、80を超える寺社を復興させた。
高麗橋の架け替えも行った。擬宝珠に1604(慶長9)年8月との銘あり。
高麗橋は大坂城と船場を結ぶ橋で大阪の発展に寄与。そして船場方面の市街化を進めた。
こうして「八百八橋」と呼ばれる大阪の街の景観を作りあげた。
また、加藤清正、蜂須賀至鎮(よししげ/家政長男)には豊臣の姓を与えた。
同年、家康が孫の千姫(7歳)を秀頼(11歳)に嫁がせた際には、浅田長政,浅野幸長ら豊臣温故の大名が秀頼に付き従い、家康に、豊臣方の結束を見せつけた。
こうした豊臣と徳川のせめぎあいの中で、秀吉七回忌の祭礼を描かせた屏風絵は、特に公家らに見せつける意味が大きかった。

家康は、祭礼の行き過ぎた成功、屏風絵の大衆と公家らに対する効果に危機感を持った。

4ヶ月後、淀殿と秀頼に朗報。
1604(慶長9)年11月10日、4年間その職にあった九条兼孝が関白を辞した。関白職は空位となった。

3ヶ月後、1605(慶長10)年2月、家康は徳川秀忠に10万の大軍を率いて上洛させた。
同年4月16日、家康は朝廷に赴き、秀忠に征夷大将軍職を譲った。
この時、秀頼は右大臣になったが、関白にはなれずじまいだった。

家康は、秀頼に、伏見城へ来て新征夷大将軍に祝いの言葉を述べるよう要求した。権力の上下関係を世に示すためだった。
伏見には江戸から来た徳川の兵10万人がいる。

寛永年間に成立した『当代記』(作者は松平忠明か? 確証はなし)には、もし伏見行きを強要されるなら、秀頼を殺し、自らも命を断つ、という淀殿の覚悟が著されている。
結局、淀殿は秀頼の伏見行きを拒絶。
家康は折れ、七男忠輝を大阪城へやり、秀頼に挨拶させる事で落着させた。

時間と伴に徳川が力をつけるのに従い、豊臣に心を寄せる大名は減っていった。

1610(慶長15)年、秀吉十三回忌は豊国神社で臨時祭礼が行われたが、秀吉の愛した能の披露は行われず、七回忌に比べて小規模なものになった。
1614(慶長19)年7月、「方広寺鐘銘事件」。鐘に彫られた銘が徳川の分断を狙ったものと見なされ「大坂の陣」が勃発。
1615(慶長20)年5月8日、大坂城落城。淀殿(47歳)と秀頼(23歳)は城と運命を共にした。

先に掲げた梵舜の『舜旧記』には、
…大坂城落ちる、秀頼公と御袋様、その他女中達20人ばかりが自害。討ち死には2万人ばかり…とある。


さて、冒頭で書いたように、秀吉の七回忌祭礼を描いた屏風絵がもうひとつある。
秀吉恩顧の大名蜂須賀氏が所有していたもので、岩佐又兵衛による《豊国祭礼図屏風》(六曲一双)で、現在は徳川美術館蔵。1614〜15年頃描かれたという説がある。

狩野内膳の豊国神社所版と基本構図は似ているが、よく見ると剣呑な雰囲気が漂っている感じがしないだろうか。
左隻の風流踊りの左端の輪は、隙間もなく密集し、踊れていないように見える。陣笠を被った町衆達はこれから敵陣へ突撃する軍勢のように見えなくもない。
輪と輪の間の男達も殺気立っており、罵り合う声迄聴こえそうな気がする。

・左隻第6扇下方部分
フォト

右隻「馬揃え」の馬達は、制御できない程興奮している。

・右隻第3扇下方部分
フォト


又兵衛版の左隻全体図と風流踊りの部分アップは〈参考2〉のリンクもご覧頂きたい。タケノコの仮装は又兵衛版でも見る事ができる。

他にも興味深い描写がある。
2023年11月14日のレポートでも書いているが、もう一度簡単に触れておく。
岩佐又兵衛版の右隻には狩野内膳版にはない喧嘩するかぶき者達の姿がある。その諸肌脱ぎの男の長刀の鞘には文字が書き込まれている、
「いきすぎたりや廿三 八まんひけはとるまい」。
ああ23歳迄生きてしまった。戦の神八幡様よご覧あれ、喧嘩でひけはとりません。
23歳は大坂の陣の時の秀頼の年齢。このかぶき者こそ秀頼で、喧嘩は大坂の陣を表しているという説がある。

又兵衛版の右隻全体図とかぶき者の喧嘩部分のアップは〈参考3〉のリンクをご覧頂きたい。

10年程の時間を空けて描かれた2つの屏風。

以下はゲスト解説者筒井忠仁の考えである。
…この頃になると、淀殿の秀頼を関白にする願いは忘れられ、豊臣と徳川の決定的な決裂を暗示するものに変わった。
又兵衛版は、豊臣と徳川の戦争がもはや避けられないという時代に、10年前の七回忌を思い出して描かれたのではないか。
蜂須賀家が又兵衛に描かせたという説もあるが、私は豊臣家が描かせ蜂須賀家に贈ったと考えている。
大坂の陣が始まる直前、淀殿は、且つて豊臣恩顧だった大名らに、あなた方はどっちにつくのですか?と問い質したかったに違いない。あの七回忌の豪華な祭礼を思いだせば、秀吉の恩顧を忘れる事はできない筈。豊臣方につきなさい!
そういうメッセージを淀殿は新たな《豊国祭礼図屏風》に込めたのではないか。

だが、蜂須賀家でさえも、豊臣滅亡に向かう戦の一翼を担い、のち、家康から感謝状をもらう事になったのである。(磯田道史の補足)

我々歴史家は、つい文字資料に頼りがちだが、絵画も一級の一次史料。
同じタイトルの2枚の図屏風は、当時の政治的葛藤だとか、人達がどういう政治権力の渦中で生きていたかとか、そういう事をダイレクトに知る事ができる非常に大事な史料だ。…


ディレクター 奥村崇史
司会/解説 国際日本文化研究センター教授磯田道史
司会 浅田春奈
ゲスト解説 美術史家・京都大学大学院准教授筒井忠仁、漫画家,文筆家,画家ヤマザキマリ
ビデオ解説 大坂城天守閣館長宮本裕次、国際日本文化研究センター名誉教授笠谷和比古
放送 12.1、私は12.10の再放送を録画して見た。
 
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