(続き)
◆第2章「原爆投下訓練と電波兵器開発」
原爆は当初ドイツへの投下が想定されていたが、ドイツの降伏が濃厚になると日本への投下が検討されるようになった。
原爆投下は米国の航空部隊 第509混成軍団が行う事となり、候補地 広島,新潟,小倉,長崎周辺の都市目標に投下訓練を行った。
最終的に1945年8月に広島,長崎に投下されたのは誰も知るところだが、それ迄に通称「パンプキン爆弾」によって彼らは訓練を繰り返した。
レポート�,遼粗�で書いたようにパンプキンは、長崎で使われた原爆「ファットマン」と同じ形、同じ重量で製造された。
下は1960年に米政府が公表したファットマンの写真。
こちらは、テニアン島で爆撃機へ搭載前に撮影されたパンプキン。
正式名称;「1万ポンド特殊高性能爆弾」
全長;3.25m
最大幅;1.52m
重量;10252ポンド(約4.5t)
原爆およびパンプキン爆弾を投下した爆撃機はB29を改造した「シルバープレートB29」。
パンプキン爆弾は1945(昭和20)年7/20から8/14にかけて、全国30都市に合計49発投下され、1600人以上の死傷者を出した。富山市,春日井市,神戸市は4発も落とされた。
投下された都市と数量は以下マップ参照。
島田に落とされたのは同年7/26午前8:34。現JR島田駅前、島田市扇町付近。
火薬搭載量が通例の爆弾より多かったため、扇町から離れた場所にいた人々も爆撃音を聞いたと伝えられる。
投下直後の現場は遺体が散乱し、負傷者が助けを求める声で溢れる惨状だった。
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爆弾投下後の島田町内の様子。
爆心地には深さ30cm直径10mのクレーターができた。ここには1軒の平屋が建っていたが全壊。
以下、上の写真が爆心から北西を、下が東の方向を望む。
調査によると、島田へのパンプキン爆弾投下は、実は当初予定されていなかった。
7/26当日、これを落とした部隊は富山市の工場を目標にして南太平洋のテニアン島を飛びたったが、富山上空が雲で覆われていたため中止、帰路、太平洋に出る直前に目視で確認できた島田にパンプキンを落としたと考えられている。
爆撃機シルバープレートB29は、下の写真の矢印の通り北西から入り、丸印内に投下。
写真は、投下直後、同機搭乗員が上空から撮った。
爆心地は現在 扇町公園となっており、その一角に1981(昭和56)年「平和之礎」が建てられた。
大きい方の正面には「爆撃の/むごさ正眼に/しるわれら/訴へ継がん/平和なる世を」と彫り込まれ、戦争を語り継ごうとする地元の意志が示されている。
裏面には、被爆で亡くなった人達の名が刻まれている。
小さい方の碑の文面は以下参。
パンプキン投下の翌日、米軍は、「伝単」と呼ばれた「降伏勧告ビラ」をバケツのような物に入れた状態で島田上空の飛行機から撒いた。
このバケツは島田町民に当り、1人死亡、1人が負傷した。
当時、「伝単」を拾った者は、すぐ警察や憲兵に届け出るよう指示されていたとの事だ。
統制社会にあって、ビラの効果は現れなかったのだろうか?
下はパンプキン爆弾の破片(9.4kg)。爆心から北西へ1kmの地点に当る中溝町周辺で発見された。
この展示は誰でも自由に触れて良いとされているので、私も触らせてもらった。その重さが指先から伝わってきた。
8/6、広島に原爆「リトルボーイ」投下。
翌日の読売報知新聞。「原爆」とは知らず「新型爆弾」としている。
広島市内の被害状況の写真。
上、投下直後の爆心地。
下、臨時救護所テント内の状況。
被害者達の惨状。
8/9、長崎に原爆「ファットマン」投下。
長崎市内の被害状況の写真。
上、爆心地。
下、浦上天主堂の周辺。
浦上天主堂の被爆前と後。
このあとも、模擬実験である筈のパンプキン弾は、8/14、春日井市に4発、豊田市に3発投下された。一体どんな意味があったのだろうか?
・「画期的兵器」、「Z装置」と「A装置」の開発
1942(昭和17)年のミッドウェー海戦の大敗後、日本軍は新兵器による戦局打開を模索した。
その中で山本五十六連合艦隊司令長官に「画期的な兵器」と称された「Z装置」。
Z装置とは、マグネトロンが発生する高出力の電磁波を照射し、敵兵器の破壊や敵兵の殺傷をも目的とした電磁波兵器。
この実験所が島田に設置された。1943(昭和18)年,現島田市博物館の東方にある新東海製紙の土地に建てられた海軍技術研究所島田分室がそれである。
日本中の物理学者や技術者が島田に集まり、Z装置の研究開発を行った。その中には、戦後ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎なども含まれていた。
Z装置は完成しなかった。そのため、海軍はより実現性のある兵器A装置の開発に着手。
A装置は、米軍爆撃機B29の撃墜を目的とした兵器で、B29に向けてマイクロ波受信機を内蔵した砲弾を放ち、同時にB29に向けて照射したマイクロ波を反射させ、マイクロ波を受信した砲弾を爆発させ、B29に損害を与えるという仕組みらしい。
1945(昭和20)年になると、島田を含む地方部でも空襲の被害にあうようになり、A装置は現 島田市牛尾地区に建造された第二海軍技術廠牛尾実験所に疎開して開発が進められた。
また、崎平地区(現 川根本町崎平)でも実験室の建設を進める事となったが、何れも途中で終戦を迎え、モノにならなかった。
島田市周辺の戦争に関わる場所や施設のマップ。
(続く)
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