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2025年08月07日18:19

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浜松市博物館テーマ展「堀留運河と浜名湖の水運」

8/6(水)、浜松市博物館で開催されているテーマ展「堀留運河と浜名湖の水運」を観る。

・会期 7.19〜9.13

堀留運河は1871(明治4)年にできた運河で、浜松中心部近くから浜名湖に至る水運としてある期間機能した。
だが、鉄道の登場等により、その利用価値は減衰していく。
本展では関連資料の展示によって、忘れられた運河について教えてくれる。

私は浜松市出身者でないため、この運河の存在そのものを知らずにいた。

以下は本展チラシ。
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モノクロ写真は、明治おそらく初期の堀留運河の起点、上新町(現浜松市中央区菅原町)にあつた船溜を写したもの。
多数の運送船が小さな港に停泊している。
その奥には、多くの人達が家の前に半纏を着て居並んでいる。船上の人達の中にもこちらを見ている人が多く、何らか記念写真だったのだろうと想像される。

写真に写された船は帆を畳み上げているが、1876(明治9)年には薪を燃料とした小型の蒸気船も導入され、輸送スピードも上がった。蒸気船は船長12m、幅2m、3馬力半で、積載2t。
就航開始時の船の多くは「サッパ」と呼ばれる屋根のない手漕ぎの和船で12人乗りだった。1875(明治8)年の記録ではそれが20艘あった由。
のち、60人もの人が乗船できる大型船も1艘就航し、人々や物資を運んで賑わった。
物資の内容は、穀類,食塩,茶,酒,醤油,瀬戸物,瓦など。

運河は、浜松宿の西番所(西出口)の先の上新町から東海道の北側を西へ1.5km開削し、入野村在来の水路明神野川(悪水路)を浚渫してつなぎ、佐鳴湖と浜名湖を結ぶ新川に合流させて、舞阪の北に出るというルートだった。
船は更に浜名湖を横断し、対岸の新所(現湖西市新所)へとつながった。通して約24kmの新航路ができたのである。
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詳細は以下 古地図参照。
「濱松」の左下に「堀留」と小さな文字が見える。そこを起点に点線が浜名湖、そして湖を横断し「新所」迄伸びている。
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当初就航した船は起点の上新町〜新所間を1日4往復。1往復に4〜5(5ないし〜6)時間かかった。

江戸時代は、幕府の関所政策により、浜松には港がなく、天竜川にも橋がかかっていなかったため、浜松から江戸や大坂へ物資を送る時は、天竜川河口東側にある掛塚や、浜名湖今切口の西側 新居の港迄運ぶなど大変な労力だった。

この運河の開設に貢献したのは、静岡藩の浜松勤番頭 井上八郎(延陵)と田村弘蔵だった。
そこで、運河は「井ノ田川」とも呼ばれた。
この事業は、当時あふれて経済的に困窮していた士族救済のためにもなったのである。
工事は、彼らの力を活用し、1871年4月に始まり、7月には早くも完成した。
記録によると、この工事に参加したのは周辺の21町,94村、合計2059人だった。

下は、井上と田村から浜松県に対し、荷物に加えて、旅客も船に乗せてよいかという伺書。1872(明治5)年1月付。
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こちらは、浜松県が「井ノ田川」に船を運行する事を認めた免許証書。1872(明治5)年10月付。
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1881(明治14)年には、井上と田村の私有物だった堀留運河が会社化された。

同年、舞阪と新居の間に「浜名橋」がかけられた。
《静岡県遠江国浜名橋之真景》(1892.4)
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1889(明治22)年には鉄道「東海道線」が開通。
これらにより、堀留運河の利用価値は衰退し、会社経営は不振に陥る事になる。
会社は陸運に重心を移していく事となる。

東海道線の車両の点検・修理を行う浜松工場の設置が1908(明治41)年に決定、1912(大正元)年には開業。
その際、浜松駅から浜松工場への引込線が堀留運河にかかるため、運河の付け替え、及び橋を設ける事に「堀留合資会社」の承諾を求めた帝国鉄道庁の照会書類。(1908.8.19)
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結果的に、堀留運河は一部埋め立てされ、船溜は新上町から東伊場に移動する事となった。
以下、東伊場の船溜の写真。船は見られず、活気のない様子。(1943/昭和18頃)
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現在も運河は一部が残存するが、底が浅くなり、勿論船は就航できない。
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〈付記〉
展示構成
1章「堀留運河前史」
2章「堀留運河竣工」
3章「新たな交通機関の登場と堀留運河」
4章「浜名湖の巡航船」
5章「堀留運河のその後」

展示総数82点。
 
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