森喜朗という日本を代表する老害がいる。いつまで、この世にいるのやら。
年の瀬の大仕事『網戸掃除』
大邸宅(自称)につき16枚の網戸をブラッシングして完了。
昨年は12月19日ギリギリだったけど、今年の師走は先生が走り出す可能性があるので1ヶ月前倒し
ミッションコンプリートしたのちに録画してあった《映像の世紀:バタフライ・エフェクト》

を2本。さすがはNHKアーカイブ。日本一のドキュメンタリー番組である。

『ヒトラーとチャップリン 終わりなき闘い』
1889年4月。16日に生まれたチャップリンと、20日に生まれたヒトラー。
チャップリン曰く「神様が間違えたら、私がヒトラーになりえたかもしれない」。
誰かが語っていた。「タイムマシンがあったら、1889年4月に戻って、ヒトラーの出生をなんとしても阻止したい

」
1952年10月7日に生まれたプーチンも同じこと。
そして僕は、トランプや東条英機や森喜朗や安倍晋三が好きではない。
チャップリンの『独裁者』、TSUTAYAで借りてこようかな。
《香川3-4》承前
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1983733027&owner_id=8666179
昨秋、この記念館の前を通ったのに「所詮、家具屋だ」とうそぶいて通り過ぎてしまったスポット。よりによって、ここを逃してまで訪館した場所が初代デジタル大臣の私設美術館。
レコメンドしてくれた先生のセンスを信じるべきだった
《ジョージ・ナカシマ記念館》
ジョージ・ナカシマ、家具デザイナー。(1905-1990)
1年前は見送ったのに、今回 WISH LIST 入りした切っ掛けが8月のピッツバーグ『ケンタックノブ』
ガイドさんから発せされた「ジョージ・ナカシマ」の人名。何となく、ガイドさんの視線が日本人に向かって微笑んでくれていたような気がしている。
17時の閉館時間に対して入館できたのは16時少し過ぎたところ。
ただ、絵画とは違い展示物は椅子をはじめとした家具だけであり、一部は展示即売のショールームの体をなしていたから30分もあれば十分と踏んでいた。
スタッフの方に展示室の説明を伺って、完全貸し切りの状態で2階展示室へ上がっていく
写真撮影はNGだそうだけど、いつも通り、意味のないルールはスルー。
しばらくするとスタッフが2階へと上がってきた。撮影禁止の注意だとしたら、ボケ老人のフリをして帰ってしまおう。

「何かご質問などありますか?よろしかったらガイドいたします」
なんとも素晴らしいホスピタリティじゃないか
せっかくなので、気になっていたことを訪ねてみる。

「このテーブルにある写真、NAGAREスタジオとニューヨークのグランドゼロ。ナカシマとどういうつながりがあるのですか?」
この質問ひとつでスタッフさんとの心が通い合う。どうやら、彼女の琴線をつま弾いたようだ。

「アメリカにいたナカシマが日本に来たのは流さんとの交流が切っ掛けでした。そして、グランドゼロには9.11以前、ここに流さんの作品が置かれていたんですよ」
ちょうど、2ヶ所とも行ったばかりだったこと。そして、そもそもレーモンド事務所で建築家を目指していたナカシマの話題になり、その師匠・ライトの最高傑作『落水荘』を観に行った時に合わせて廻った『ケンタックノブ』でナカシマの作品を観ていたことを彼女に伝えてみた。

「建築関係の方ですか?」

「いや、ただの趣味で…」

「この場所でケンタックノブの話しを聞けたのは初めてです

」
スタッフさんも桜製作所の社員さんで、ジョージ・ナカシマ作品のことを知っていてガイドできるという。リートフェルトやファン・デル・ローエの作品を眺めながら、建築談議を少し。
せっかくだからとジョージ・ナカシマの甥っ子が作成したドキュメンタリーDVDを観てくれと誘われた。上映時間は20分。
フライトまでは時間がたっぷりあったが、閉館時間が迫っていた。

「これからだと17時を過ぎてしまいますが…」

「大丈夫です。気にせずにご覧になっていってください」
映像作家でもあるというナカシマのネフューが作った作品で、ジョージおじさんの人となりが十分理解できた。
結局、退館のために出口に向かった時間は17時10分ごろ。

「申し訳ありませんでした、こんなにしていただいて。何だか、行く先々で皆さん、親切にしてくれるんです(涙)」

「お客様の人徳ですよ。私も(トークに)引き込まれてしまいました(笑)」と、明るく送っていただいた。
実は、スタッフさんがついてくれたお陰なのか、幾つかの作品をスルーした。

「また香川にやってきた時は、ケンタックノブの恋人と一緒に記念館へ伺いますね

」
人生は所詮、ひまつぶし。難しく考えずに行きたいところへ行けばいい。
さて、2本目の《映像の世紀:バタフライ・エフェクト》

。

『東京 破壊と想像:関東大震災と東京大空襲』
ドキュメンタリーの主役は後藤新平、そしてアントニン・レーモンド。
関東大震災のあとに後藤新平が計画した鉄筋コンクリートによる都市計画は、不況と保守のハードルにより頓挫。下町は木造密集が継続されることになった。
その23年後に起きた東京大空襲による火災は、木造密集建築であるがゆえに拡散した。
レーモンドは大震災後の復興設計を引き受け、方や戦争が始まるとアメリカに帰り、日本敗戦への効率的な戦略作りに奮闘した。

「この戦争を一刻も早く終わらせるには、日本をできるだけ迅速に、そして効率的に打ち負かすこと」。レーモンドの語録である。
結局、日本敗戦後はGHQの一員として、日本復興建築に携わり、生涯を終えたレーモンド。国内に遺した建築物は400を超えたという。
その遺伝子は前川國男、吉村順三たちを通じて今に至る。
まだまだレーモンド建築への旅の途中。
香川、see U again
■森元首相「ロシア、核使うかも」
(時事通信社 - 11月18日 21:01)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=7192797
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