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2019年06月26日00:47

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エロ本を作っていた、その3

 昭和が終わる予感を筆者たちは持っていた。しかし、そうした予感とは別に、ただ、エロ本を作っていた。日本の景気はそれほど悪くないのに、筆者は、とにかく貧乏だった。理由は、ビデオと性風俗で儲けた時代を忘れられなくて、一度、大穴をとったギャンブラーのように、金を使っていたからだった。マンションからアパートに、儲けたといってもジェミニ程度の車さえ手放していた。
 仕事をする出版社の事情も似たようなものだった。一本数百万円で製作していたビデオは、企画撮影編集まで入れても四日か五日仕事。ところが、一冊百五十万円の製作費の中に自分のギャランティも含んで作るエロ雑誌の製作には二か月がかかった。撮影、取材経費、編集の手伝いを雇う費用、その他のもろもろを引くと、残るのは十万程度、これでは月収五万円になってしまう。自転車操業どころではない、一輪車操業なのだ。小石に躓いてさえ転がり落ちる。そして、その事情は、どこの出版社も似たようなものだった。
 社員が数人の出版社。繁華街の外れのワンルームマンションに強引に机などを押し込んだ出版社。社長と経理以外は全て外注の人間という会社も珍しくなかった。シェアハウスではなくシェアオフィスなのだ。ただし、与えられているのは机一つ。後は、トイレもコピーも、ライトテーブルも冷蔵庫も共用なのだ。
 作っているのは文字の多い教科書サイズのマニア雑誌か、写真だけのビニ本形式の名残りのような物、そして、書店に並んでいるのを見たことがないような書籍だった。
 ライトテーブルやコピーは使用頻度が高いので、常に使用がかち合う。従って、同じ仕事をしているわけでない筆者たちの仲は決してよくなかった。いや、むしろ険悪なケースのほうが多くあった。特に鞭と緊縛のSМ本の製作者たちは、オシッコなどの入るスカトロ系や女王様系の本の製作者を軽蔑しているようなところがあった。おかしなものだ。出版でもエロは軽蔑され、そのエロ出版の中でも、マイナー出版は軽蔑される、つまりは、出版の最下層のようなところにいるのに、その最下層でも、まだ、下を作ろうとしていたのだ。
 筆者の得意はスカトロ、性犯罪、猟奇だったので、まさに、軽蔑されるものばかりだった。
 それでも、好きな本を作ることが出来るのは有難かったのだ。
 筆者は取材のみで作る本に拘っていた。その後に流行する風俗雑誌とは違う。読み物なのに取材中心という本が作りたかったのだ。そのために、企画も通っていないのに、個人の金で取材を繰り返していた。アダルトモデル、風俗嬢、ナースを中心に、露出痴女、マニア、近親相姦の経験者、性犯罪被害者と、何しろ、本が出来る予定もないのに取材をしていたのだ。ただでさえ貧乏なのに、実費で取材しているのだから、生活は困窮するに決まっている。それでも止めない。風俗嬢に養われ、掃除や洗濯、料理の支度をしながら急場を凌いでいたこともあった。
 インタビューのみのエロ本。結局、最後まで企画は通らず、ついに出版出来ないまま、カセットテープは今も段ボールに仕舞われたままだ。
 しかし、そうして身を切ったあげく、結果として、陽の目を見せられなかった本を作っていたのは筆者だけはない。そんな編集者はいくらでもいたのだ。さすがに血を売っていた者こそいないが、戸籍を売ってまで本を作ろうとしていた編集者たちだっていたのだ。
 昭和の終わり頃、そんな最下層で、地面に這いつくばって、筆者はエロ本を作っていたのだ。いや、作ろうとしていたのだ。それこそが、まさに昭和のエロだったのだ。昭和の終わり頃、エロ本は、陽の目を見ない本によって支えられていたのである。
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