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2019年06月14日15:11

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料理の話じゃない、その12

 子供の頃から、かなり長い間、いや、もしかしたら今でも、筆者は喫茶店をやりたいと思い続けていたように思う。今でも。喫茶店といっても、筆者がやりたかったのは、コーヒーの美味しい店でも、サンドイッチの美味しい店でもない。正直、コーヒーは好きだが、今だに、本当の味は分からないでいる。料理も好きだが、お金がとれるほどの料理は作れないままで、進歩はない。では、どんな喫茶店がやりたかったのか。若い頃は、芸術家が集うような芸術喫茶をやりたいと思っていた。画廊喫茶ではなく芸術喫茶。大学の頃、その夢が実現しそうだったことがある。しかし、当時の筆者の能力では、とても出来なかった。
 その後、テーブルトークゲームを中心としたファンタジー喫茶をやりたいと思い。ホラー雑誌編集をしていた頃にはホラー喫茶をやりたいと思っていた。サイコ喫茶というのも考えたりした。
 どの店も、雰囲気を売るだけの店だ。
 これは筆者の書くものに似ているのだ。筆者は、あまり本質には触れたくないと考えて書いている。生活の中にある悲しみや孤独について書きたいと思っているが、人間の悲しみについて書きたいとは考えていない。たとえば適切ではないかもしれないが、筆者は哲学ではなく心理学で文章を書いているようなところがあるのだ。ようするに喫茶店をやるのに、立地もコーヒーの味も考えずにやるタイプなのだ。それでは喫茶店も文章でも成功はしないことだろうし、実際、どちらでも成功していない。しかし、筆者は本質について書くことには、ためらいがあるのだ。
 筆者にはそんな知識もないし、そうしたことを書くための技術もないのだ。
 筆者はわりとストイックなので、何かをするための努力は厭わない。ゆえに、苦労が嫌だから、そうしたものを書きたくないというのではないのだ。それなら、ストイックに知識を蓄えストイックに技術を習得すればいいようなものだが、それはしたくないのだ。そこまでしたくないのではない、それをしたくはないのだ。理由は、筆者の興味がそこにはないからなのだ。
 修行して本格的なコーヒーが出せる喫茶店をやりたいと思う人がいることだろう。そうした人にしてみれば、コーヒーの味も分からないような人間が喫茶店をやりたいなどなめた話だと思うのかもしれない。
 しかし、人には分相応というものがあるのだ。筆者には本格的なコーヒーの味は分からないし、それを作ることに対する興味もないのだ。その分、筆者は店の雰囲気を作りたいし、その雰囲気を壊さない会話を大事する力はあると思っているのだ。
 誰もが文学をやる必要はない。小説を書くすべての人が文学賞を目指す必要もない。筆者は、それでも、世の中の片隅で、こっそりと官能小説を出して行きたいと考えているのだ。立地を無視した喫茶店が観光地の片隅でひっそりと店を開いているように、筆者は、どこか辺境の地で、孤独に書き続けていきたいのである。
 
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