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2021年10月02日12:42

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映画日記『水俣 患者さんとその世界』

2021年10月1日(金)

『水俣 患者さんとその世界』(1971年)
監督:土本典昭
今池・名古屋シネマテーク

50年ぶりに再見。
知多半島の田舎から、高校の友人に連れられて名古屋まで見に行った。
このとき17歳。
見たのは映画館でなく、どこかのホールか大きめの集会所だった。

見終わって、ほんとうにショックを受けた。
水俣病のことは新聞やテレビで知っていたが、いずれも表面的、かつ断片的な情報でしかなかった。
本作は水俣病患者の一人ひとりを、暮らしぶりを含めて丹念に撮っていく。
彼らが語る生い立ちと、発症してからの心身ともに味わうことになる苦痛の数々。
また、発症し狂乱のすえ悶死した父母の話。そして、周囲からの差別。
2時間47分という長い時間をかけなければ伝わらないことがある。
強い方言のため、言葉が聞き取れなかった。ふつうの映画なら、とっくに爆睡だ。
それでも、若かったこともあり、なんとか映画に食らいついていった。
しだいに怒りがわいてきた。
それは、胎児性水俣病の少年や少女の姿によってだ。
本作に登場する胎児性水俣病患者の多くが1950年代半ばから60年代あたりに生まれている。
つまり、私と同世代だったり、弟や妹の世代だ。
17歳といういちばん多感な時期に、本作と出会ったことは、その後の人生に何かしらの影響を与えたとおもう。
そんな馬鹿なとおもわれるかもしれないが、いまもって自動車の運転免許を持っていないのは、実はこの映画の影響だった。

その映画を半世紀ぶりに見た。
街頭で「立ちなはれ・・」と詩を語り出す支援者、タコ獲り名人のお爺さん、さっきまでニコニコしてたのに突然「もうダメだ」とつぶやく少年、一瞬ちらりと映る石牟礼道子、そして患者さんたちが、チッソの株主総会へ白い巡礼姿で御詠歌を唱えながら乗り込んでいくクライマックス、自分でも意外なほどに多くのシーンを覚えていた。
今では数日前に見た映画のことすら忘れてしまうのに、どうしたことだ。
1本の映画に向き合う真剣さが、10代の頃のように持続できないことが悲しい。

再見による発見もある。
昨日見た『水俣一揆 一生を問う人びと』の中心人物だった川本輝男が、隠れた患者を捜して、あちこちの辺鄙な集落を歩き回るシーンが終盤に出てきた。
彼の地道な活動は、やがて多くの未認定患者が声をあげるきっかけとなった。
本作公開の1971年は、水俣病患者による闘いのピークであるとおもってきたが、実際は長い闘いの始まりだったことを知る。
鹿児島から大阪で行われたチッソの株主総会に向かう途中で、患者さんたちが広島に立ち寄り、慰霊碑の前で原爆被害者のため、御詠歌を唱える。
このシーンは記憶になかった。
この広島のシーンと、チッソの株主総会に流れる御詠歌のシーンが共鳴する。
闘争のシンボルでもあった幟(のぼり)の「怨」の字には、公害だけでなく、戦火の中で、そして戦後の繁栄の裏側で貧困と差別に呻吟し、無念のうちに斃れていった無名の人びとの思いが込められていた。

長文の感想になってしまった。
50年前の映画とはいえ、本作が放つ熱量が今も衰えていないのだろう。
二日間かけて土本典昭監督の作品を見たのは、『MINAMATA』の予習であるが、もうひとつは原一男監督の新作『水俣曼荼羅』の予習でもあった。
『水俣曼荼羅』の上映時間は372分、6時間超えだ。
『水俣 患者さんとその世界』を見た17歳のときの情熱が残っていればよいのだが。



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