人間を人間として見ることが、実は本当の意味でその人を正しく見ることなのである。そして、そこから出る尊敬が本当の尊敬なのである。(三浦綾子『私にとって書くということ』)
どんなに丈夫な人でも、どんなに裕福な人でも、どんなに頭のよい人でも、どんなに幸せな人でも必ず死ぬ。 その死は、人間にとって、それこそ、最後の「義(ただ)しい務(つとめ)」なのだ。八十になり九十になって、この世に充分功績を残したからといって「
人間は弱いものだ。たった一人の人の優しさにでも触れることができたなら、侘(わび)しい人生が次第に喜びの人生へと、変えられていくのだ。葉書一枚を書くことによって、何が起きるか、今すぐペンをとって見ようではないか。(三浦綾子『明日のあなたへ』)
その死ぬということをどういうふうに毎日受けとめていくべきか。これは自分自身の死を考えることであり、自分の死を考えることは自分の生を考えることですけれども、やっぱり人の死を考えることは人の生を考えることですよね。(三浦綾子対話集2)
大きな失敗を犯した時は、誰が責めなくても、本人自身がいても立ってもいられぬほどに、自己を責めているものだ。もう二度とこんなことはするまいと、心から悔いているものだ。その上、人が責めるのは、これこそ過酷というものだ。生きる道さえ閉ざしかねな
が、これですべてが終わったのではなかった。ここから人類の新しい歴史が始まったのである。もしイエスがいかに偉大に人物であっても、十字架上に人類の罪を負わなかったとすれば、世界の歴史を変えるような存在にはならなかったであろう。 また、イエスの死
他人には完全を求め、自分の現状を許すということは、つまりは、自分自身に自分の欠点が見えないからだ。自分をよしとしているからだ。(三浦綾子『北国日記』)
自分自身の身に起きたことなら嗤えぬことを、他人事なら嗤うとい冷たさは、決して許されることではあるまい。嗤うべきことは、他人の失敗や不幸を見て嗤うおのれ自身の姿ではないだろうか。 人を嗤った時、その時の自分こそ嗤われる人間なのだ。わたしたち
午後は散歩。石神井川沿いの桜がボチボチ咲き始めていい感じです。まだ満開とは言えないけど、此位が好きです。
…合わせると二十年を越える闘病生活だ。ある一時期は臥(ね)たっきりの幾年間もあった。微熱に悩まされる果てしない年月もあった。 が、よく考えてみて、私が病気で失ったものは何だったろう。そう思った時、私は驚いた。何と私が失ったものは、健康だけと言
「ふーん、しかしだな。金は、あっても邪魔にはならんぞ」「そうかな。金って意外に邪魔なものかも知れんと思うよ」きっぱりと文治は言った。キワはちょっと目を瞠(みは)った。長吉が似たことを言ったことがある。「西郷隆盛という男は、子孫のために美田を買
若人の生き甲斐が、壮年になっては、別の生き甲斐に変わり、また壮年時代の生き甲斐が年老いては通用しないものになるのでは、少しおかしいと思うのだ。 今までの自分の生き甲斐と信じていたものを捨てて、他の生き甲斐を求めねばならぬとしたら、人は一生
「口に出して言う者より、口に出さぬ感謝のほうが、時に深いこともある。声を出して泣くことより、じっと耐えている悲しみのほうが深いかもしれぬ。」(三浦綾子『われ弱ければー矢嶋楫子伝』)
「人間は上手がわからないという弱点がある。上の者は、下の者の力がよくわかるが、下の者は、自分より上の者の力がわからない。」(三浦綾子『自我の構図』)
「人間はね、ふだんぶらぶらしていてね、いざとなったらやるんだって言ってみても、駄目なんだよ。人間って、ちょっと油断するとすぐに怠け者になるからね。毎日の何でもないようなことでも、怠けないようにするって、大事だよ。」(三浦綾子『裁きの家』)
「法律というものは人間の作ったものでしょう。人間が作ったものである限り、完全とは言えない。何よりも大事なのは人の命です。世の中は人の命が大事という線に沿ってありたいもの」(三浦綾子『生かされてある日』)
私は、人生というものは、喜びよりも苦しみが多いと思っていた。が、それはどうやら錯覚でもあるようだ。悲しみや苦しみは、いつまでも心に残っているので、喜びよりも印象が強い。それで苦しみのほうが多いように思って来たのであろう。が考えてみると人生に
わたしたちも、日常の生活において謝罪することの実に少ないものである。神に対しては勿論のこと、人にもあやまることがはなはだ少ない。 (三浦綾子「旧約聖書入門」)
おざなりの言葉が文化を滅ぼすって、川谷牧師が言われたことがあります。その人に来てほしくないのに、「そのうちにらっしゃいね」とか、行こうとも思ってないのに、「行くわね」とか、そういう言葉の積み重ねからは何も生まれない。 だから、よく考えて真実
考えてみると、大半の人を信じないでわたしたちは生きているのだ。けれども、その中の一人ぐらいは信じられる、と思っているだけなのかもしれない。(三浦綾子「帰りこぬ風」)
自分の人生において、どのような存在となるかわからずに、敵と決めてしまうことは、これはまことに愚かしい。(三浦綾子『夕あり朝あり』)
人間の生活って、感覚的なものだけを満たそうとしたら、結局、いつまでたっても、満足することはできないわよ。刺激は刺激を求めるのよ。(三浦綾子『この土の器をも』)
「金を持たせると、その人がわかる」という言葉と、「金を失うと、その人がわかる」という言葉がある。 いずれにしても、人間が金にふりまわされやすい存在であることを物語っている。(三浦綾子『聖書に見る人間の罪』)