歩いていて転ぶ時と一生懸命走っていて転ぶ時と、いずれが痛いか。いずれの傷が大きいか。傷は一生懸命に、真実を生きたことのしるしだ。 (三浦綾子『太陽はいつも雲の上に』)
自分で選んだ道を歩くことは、快いことだよ。だが、思いもかけない道を、立派に歩むことは、さらにすばらしいことかも知れないよ。(三浦綾子『石の森』)
人間は「何になるか」を考える前に、まず「どのように生きるべきか」を考えるべきではないだろうか。(三浦綾子『孤独のとなり』)
愛というのは、相手を疲れさせることじゃないのよ。窒息させることじゃないのよ。愛するということは、生き生きした命を与えることなのよ。(三浦綾子『石の森』)
『貧しい人には暖かい心を、悲しんでいる人には親身の涙を、疲れている人には慰めのことばを与えてあげてください。』(三浦綾子『孤独のとなり』)
「わたしたちは、しばしば与えるべき時にこれを惜しみ、与えてはならぬ時に、自分をよく思われたくて与えてしまう。与えるにしても、与えないにしても、自己本位にしかあり得ないとは何と情けないことであろう。」(三浦綾子『生きること思うこと』)
「自分一人くらいと思ってはいけない。その一人ぐらいと思っている自分に、たくさんの人がかかわっている。ある人がでたらめに生きると、その人間の一生に出会うすべての人が不快になったり、迷惑をこうむるのだ。そして不幸にもなるのだ。」(三浦綾子『続氷
人間の口からでる言葉というものは、心から出るものなのです。この心から出ることを忘れて言葉を語るのは、ナンセンスなのです。貧しいこころからは貧しい言葉しか出てきません。豊かな言葉は豊かな心から出てきます。実に単純明快なこの一事を私たちは忘れて
言葉は確かに大切なものだ。しかし人間には、言葉よりも大切なものがあるのだ。それは心である。愛である。(三浦綾子『それでも明日は来る』)
小学校の時、この世で一番むずかしい言葉は、「ハイ」と「イイエ」であると習った。その意味の深さ重さが、年を経るに従って身に沁みて来た。人間、決して「否」と言ってはならぬ時がある。また決して「然り」と言ってはならぬ時がある。が、私たちは、幼い時
夫婦関係でも、嫁姑の関係でも、労使関係でも、友人関係でも、相手は人間である。この相手を知り、自分を知ることが、人との関係を保つ基本ではないか。(三浦綾子「孤独のとなり」)
『人間としての、一つの義務として「互いに愛し合わねばならない」のです。 愛するとは、単なる「好き」とはちがいます。相手を生かし、相手を育てる意志なのです。』(三浦綾子 『小さな郵便車』より)
人は立ち止まってはならない。しかしまた立ち止まらなければならない。私達人間は、日々歩いている。何かに向かって日々歩きつづけている。が、その歩みは果たしてひたすらな歩みか、否か。私達は、自分のその歩みを止めて、自分が何に向かって歩んでいるのか
「私たちが、人の言葉をきちんと受け止められないのは、人の心を大事にしないところにあるのではないか。人の言葉に謙虚に耳を傾けようとする姿勢があれば、私たち人間は、様々な面において、もっと向上する筈である。(三浦綾子『遺された言葉』)
言葉は力である、と私は思う。一言がその命を奪うこともあれば、受けた人の人生を変えることもある。「舌先三寸で人を殺す」 という言葉を、幼い頃からよく聞いたものだ。言葉というものは理不尽なほどに人間を動揺させ堕落させ、非情に走らせるかと思うと、
こんにちは。今日は三浦綾子読書会のご紹介日記です。綾子さんが亡くなった後、2001年7月に東京でスタートした団体です。その後全国に広がる共に、朗読の会、文学散歩ツアー、聖書の学び会、演劇、短歌の学び会やさまざまな特別集会など、多様な活動に取組み
私の十三年の病気は、たしかに精神的にも肉体的にも、そして経済的にも苦しいものであった。だが、今過去を顧みて、あの十三年の病気の月日は、やはり必要な、なくてはならぬ時であったと、つくづく知らされることがある。病気のみならず、あの時、なぜわたし
片目をつむるというのは、見てみないふりじゃなく、つむっている片目では、自分の心の姿を見るといいのね。 (三浦綾子『愛に遠くあれど』)
気の紛れることさえあれば、その日その日を暮らしていける。しかし、それでは精神的な日雇いになってしまうではないか。その気の紛れることが、たんなる遊びであっても、遊びによって自分を忘れた生き方をしてしまうのではないか。(三浦綾子『さまざまな愛の
『人生における病気、失恋、浪人、破産などのさまざまの失敗も、それにうちひしがれてはたんなる失敗で終わる。 世界一のホームラン王は、失敗もまた他の人より多かった。 失敗を恐れて何もしない人間こそ、全生涯が失敗となる。』(三浦綾子・光世『太陽は
人生とは他との戦いではなく、自分自身のなかにうごめく、わがまま、怠惰、勝ち気、冷淡、さまざまのよからぬ欲望などとの戦いであると知ったとき、わたしたちの生活内容はたしかに変わる。(三浦綾子「愛すること信ずること」)
「竜太さん、ひどい目に遭った時に、『ひどい目に遭った、ひどい目に遭った』って、何万回言ってみても、何にもならないと思うの」(中略)「向こうはひどい目に遭わせたつもりかも知れないが、こっちは決して参っちゃいないという生き方を示さなきゃね」(
人生には学ぶべき教材が、ごろごろところがっている。学校を出ていないということもまた、一つの教材である。貧しいことも、体の弱いことも、失敗も失恋も、人との不和も、そしてまた、順境も逆境も、学ぼうと思えば、すべてが教材なのである。朝起きた瞬間、