「辛い目に会わせてくれる人が、私たちを人間にしてくれるものなのですよ。いい人だけが、私たちを育ててくれるものではないのですよ。」(三浦綾子『愛の鬼才』)
自分だけがよければよい。自分の家族さえ幸せならよい。人より少しでもよい学校に入りたい。出世をしたい。お金がほしい。自分より優秀な人間がにくい。重いつづらと軽いつづらを出されたら、誰も彼も重いつづらをもらいたい、と思う人ばかりです。ねえ、皆さ
私が死ぬときは結局、周囲のすべての人々に対して「いろいろありがとう」ということと「許してくださいね」ということと、この二つしかないような気がします。ほかにも探せばいろいろあるけれど、この二つの言葉だけは素直に、本心から言って死にたいですね。
<隣人を愛することを神は命ぜられた。全人類をではなく、隣人をである>榎本保郎牧師の言葉に考えこむ。職場に行けば隣の机の人が隣人であり、向かいの机の人が隣人だ。学校に行けばクラスメイトが隣人だ。家に帰れば隣近所の人はむろんのこと、家族もまた隣
すべての人がいつかは死ぬのだから、本来ならばすべての人はもっと死について考えていいのだ。誰もが、今日が命日かも知れないのだ。只、(いつかは死ぬさ)と思っているだけだ。(三浦綾子『北国日記』)
自分の非を素直に認めたり、まぬけさを客観的に笑えたら、これは立派だよ。人間、立派ということは、こういうことじゃないかな。ここには劣等感も傲慢もない。あるがままの自分を見つめる澄んだ心だけがある。寛い心と言ってもいいね。(三浦綾子『足跡の消え
「傷痍なき人生は恥」 この言葉を、わたしは療養中に人に聞いた。誰の言葉か、わたしは知らない。が、若いわたしの心を激しく揺さぶった言葉である。もし人が生を享けて、何の傷もその身に受けたことがないとしたら、それは果たして名誉なことであろうか。
花を見てもそうですし、食べ物を見てもそうです。海には魚がいて、貝がいて、イカがいます。陸を見れば米も麦も豆も、いろいろな野菜も果物も、まずたいていのものはおいしくて、美しくて、においがよくて、人間を喜ばすことができるものです。どんなに神様の
役人を偉いとか、位のある者を偉いとか、金のある者を偉いと思ってはならん。権力のある者ほど、人間を虫けらのように思いやすいものだ。(三浦綾子『嵐吹く時も』)