猪木とカール・ゴッチの師弟関係はフィクションも多少入るものの、プロレスファンに長年イメージ付けられて来た「常識」の一つだったと言っていいでしょう。69年、日本プロレスが若手のコーチとしてゴッチを招聘、そこへ練習好きとして知られているメインイベ
ストロング小林は腰痛欠場に入る少し前の81年10月8日、蔵前国技館で行われた新日本プロレスと国際プロレスの全面対抗戦(国際は団体崩壊しており、実質的には名前だけの対抗戦)のメインイベント、猪木vsラッシャー木村戦において猪木が反則負けし、対抗戦が継
84年8月25日、新日本プロレスの坂口副社長は全日本プロレスとの業務提携を行った新日本プロレス興行(以下、新日本興行)の大塚直樹社長に対し、9月一杯で取引解消する旨の絶縁宣言をしました。新日本興行には新日本プロレスの興行はもう売らないということで
「キン肉マン」はゆでたまご作の漫画で79年より週刊少年ジャンプで連載開始され、83年からは日本テレビ系列でアニメ番組として放送されました。ヒーローものに加えて作者が大のプロレス、格闘技ファンであったことからプロレスカラーも強い作品で登場キャラク
84年ブラディ・ファイト・シリーズ前半戦特別参加のボブ・バックランドは前83年12月26日、ニューヨークMSGでアイアン・シークのキャメルクラッチにTKO負けを喫し、WWFヘビー級王座から転落してからは初めての来日。82年8月5日、蔵前国技館にワンマ
84年ブラディ・ファイト・シリーズは8月24日、後楽園ホールで開幕。ロジャー・スミス、デューク・マイヤース、トニー・セントクレアー、スコット・フェリス、ジェリー・モローの外国人選手がシリーズ全戦参加。シリーズ序盤戦(8月24日後楽園ホール〜9月3日
パキスタン遠征第2戦は84年8月8日、ラホール市のカダフィ・スタジアムに35000人(満員)の観客を集めて行われました。初戦はオールシングルマッチでしたがこの日はタッグマッチが組まれ、メインイベントは猪木、藤波組がビリー・クラッシャー、バッドニュー
84年サマー・ファイト・シリーズが終わると猪木以下新日本プロレス勢はパキスタン遠征を行いました。猪木のパキスタン遠征はこれが3度目。初回は76年12月、地元最強と言われたボル・ブラザーズ(ボロという表記もあり)のアクラム・ペールワンと12月12日、カラ
84年8月2日、サマー・ファイト・シリーズ最終戦はこの年の大相撲秋場所を最後に老朽化の為取り壊しが決定している蔵前国技館で行われ、12000人(超満員)発表の観客を動員しています。メインイベントは猪木vsデビッド・シュルツから変更された猪木と長州のこ
84年7月28日は松戸市運動公園体育館大会(テレビ収録)。最終戦の8月2日蔵前国技館の後に放送される分でした。メインイベントは猪木、藤波組の師弟タッグがデビッド・シュルツ、バッドニュース・アレン組と対戦。猪木が7分41秒にシュルツを逆さ押さえ込みで
ニューヨークMSGから弾丸で帰国した猪木は7月26日、盛岡・岩手県営体育館(テレビ収録)から試合に復帰しました。猪木はメインイベントで木村健吾と組んで長州、谷津嘉章組の維新軍と対戦。木村健が維新軍の連係に捕まりほうほうのていでタッチすると勢いよ
84年7月24日、後楽園ホールでUWF無限大記念日2日目が開催され初日に続いて3000人(超満員)の観客を動員しました。初日とはカード編成を変えて日本人vs外国人の対戦を中心に持って来ました。第1試合は山崎一夫がエル・ファンタスマと対戦、前夜に続きシュ
84年7月23、24日の両日にはUWFが後楽園ホールにて「無限大記念日」と題した2DAYS興行を開催しています。新日本プロレスから移籍の藤原喜明、高田伸彦、タイガージムからザ・タイガー、山崎一夫が参戦して陣容が一気に増えたUWFはテレビ局からの放
MSGへ猪木が出向いた目的はもう一つ、84年6月14日、蔵前国技館でのIWGP優勝決定戦で不透明決着に終わったハルク・ホーガンとの再戦をビンス・マクマホンと交渉する為でした。ホーガンは次期ブラディ・ファイト・シリーズに特別参加(9月4日〜20日)が
84年7月23日、ニューヨークMSGで行われたWWFの「ビンス・マクマホン・シニアメモリアルナイト」に参加の為、猪木は渡米し、新日本プロレスのサマー・ファイト・シリーズ7月23日、五所川原市民体育館、24日、弘前市民体育館、25日、十和田市民体育館の
ビンス・マクマホンによる全米制圧は興行戦争を仕掛けるに留まらず、ケーブルテレビの番組買収も行っていました。す84年7月14日、NWAジョージア地区の試合を放送していたWTBS(米国TBS、ターナー・ブロードキャスティングシステム)の時間枠を買収し
新日本プロレス勢は北海道へ移動、84年7月13日は帯広市総合体育館でのテレビ生中継。メインイベントはヘビー、ジュニア混成の6人タッグマッチ、猪木、藤波、ザ・コブラ組vsデビッド・シュルツ、ダイナマイト・キッド、デービーボーイ・スミス組はフェンスア
84年7月8日は日曜日の後楽園ホール大会、この日は新日本プロレスへの売り興行。日曜日の後楽園ホールと言えば全日本プロレスの定番でしたが毎回、満員、超満員を記録しており、お客さんの集め易さでは日曜日は強く、新日本興行設立以来、3月4日、5月27日
馬場の全日本プロレスと大塚直樹が代表を勤める新日本プロレス興行(以下、新日本興行)との業務提携発表のニュースを聞かされた新日本プロレスは怒りをあらわにして新日本興行に抗議。坂口副社長は大塚代表に対し「全日本プロレスとの提携はやめるように」と通
84年サマー・ファイト・シリーズ開幕戦から出場停止処分を受けていた長州でしたが、6月29日、後楽園ホールの谷津嘉章vsデビッド・シュルツの試合前にタイツとシューズというコスチューム姿で登場し、試合をさせろとアピール。新日本プロレスではこれを受けて
84年サマー・ファイト・シリーズ開幕戦となった6月29日、後楽園ホール(テレビ生中継)の試合前に会見がありました。坂口副社長、山本小鉄審判部長が会見に臨み6月14日、蔵前国技館におけるIWGP優勝決定戦で無法乱入を行った長州に対し今後の乱入禁止、数
IWGP最終戦からシリーズオフにかけて様々なマイナス要因が重なった新日本プロレスは84年6月29日、後楽園ホールから夏の陣サマー・ファイト・シリーズが開幕。デビッド・シュルツ、バッドニュース・アレン、WWFジュニア・ヘビー級王者のダイナマイト・
ビンス・マクマホンの全米制圧に対抗しNWAが反撃を開始しました。84年5月29日、ニューヨークとはハドソン川を挟んでほど近いところに位置しているニュージャージー州のイースト・ルーサーフォード・メドーランズ地区のブレンダン・バーン・アリーナにてN
藤原喜明、高田伸彦のUWF移籍会見の席上、高田は「正直言って、札幌(7月20日)のダイマイト・キッド戦はやってみたかったです。でも長い目で見てこちらにお世話になろうと思ったんです。藤原さんが動いたことが決定的な要因ですね。自分は藤原さんについて
新日本プロレスを襲った激震はまだ収まることはなかったです。84年6月27日、東京・九段下のホテル・グランドパレスにおいて記者会見が行われ、藤原喜明(当時35歳)と高田伸彦(当時22歳)が所属していた新日本プロレスを退団しUWFへの移籍を発表しています。
蔵前暴動事件がようやく収束した翌日の84年6月22日、またも新日本プロレスを激震が襲いました。全日本プロレス会長の馬場と新日本プロレス興行(以下、新日本興行)社長の大塚直樹が出席して東京・赤坂のキャピタル東急ホテル「寿の間」において記者会見が行わ
日本プロレス史上に残る暴動騒ぎとなった84年6月14日新日本プロレス蔵前国技館。あの時、乱入した長州は最初から明らかに不快感を全身から漂わせており本人が好んでの乱入では絶対になかったと思います。1年前、ハルク・ホーガンのリング内での助走をつけた
試合後、IWGPのベルトを腰に巻かれた猪木は収拾がつきそうもない状況の中でハルク・ホーガンに向かって英語でマイクアピール。最後の「ツーベルト!」の部分だけははっきり聞き取れましたが、「もう一回、今度はお前のWWFとこのIWGPの2つのベルト
84年IWGP優勝決定戦は6月14日、蔵前国技館に13000人(超満員)発表の大観衆を集めて行われました。前年度優勝者ハルク・ホーガンに挑むリーグ戦覇者は53点無敗の猪木。以前ビンス・マクマホンが「ホーガンとアンドレ・ザ・ジャイアントのシングルマッチを
84年IWGPもいよいよ大詰めとなりました。第27戦は6月9日熊谷市民体育館(観衆4800人超満員)。公式戦はマサ齋藤がアドリアン・アドニスに反則勝ちを収めて24点、齋藤は前半戦は点が伸びませんでしたが後半は細かく得点を稼ぎました。アドニスは25点で公式