日本のキリスト者が肝に銘じておかなければならないことは,ヨハネによる福音書15章20-25です。マレーに来てから特にそう感じます。
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[ヨハネによる福音書15章20-25]
15:20 『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。
人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
15:21 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
15:22 わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。
15:23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。
15:24 だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
15:25 しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
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上記に関して,スイスの法学者ヒルティは,下記のように言っています(ヒルティ,”眠られぬ夜のために,第2部” 岩波文庫 p265より)。
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あなたは,自分の内的生活の著しい進歩につれて,(中略),尊敬されるようになるだろう,などと信じてはならない。この反感は,(中略),無神論か汎神論となる。個々のキリスト者に対しては,どんなに良くても,「理由なき憎しみ」が続く。
(中略)
このような憎しみに対しては,どんな抵抗も無駄である。「理由のない」憎悪は,いつになっても,どんな方法でも,宥められることがない。むしろ,辛抱づよく耐え忍ぶよりほかにはない。その憎悪がなるべく「理由」を見つけられないために。
(中略)
理由のない憎悪は,本来,良心のやましさを証しするものにすぎない。
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上記は,まさに現在の日本の状況を見ているかのような的確な指摘です。キリスト教国のスイスですらこの調子です。ましてや,キリシタン,伴天連以来の偏見が根深く,深層心理に残っている日本では,くれぐれも心してかかる必要があります。
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