瞑想は、高位になるほど、実はやりやすい。慣れない始めの方が大変で、中途でも、すぐ道を外れてしまう。また、上位でも、悟ったと思い、しない。悟りの体は、見ても見ず、聞いても聞かず、だ。それは自我を辿り、自我の芯を抜いたからだ。見ても見ず、これは
精を温存する事を理解しなければならない。滅度は、最上の温存である。血が巡り、静かである事、これが、精の温存である。暴飲暴食、酒タバコ、怒りや享楽、これらは、精を損なう。内臓筋肉、血流、それらが、よく鎮まっていなければ、ならない。ある程度動か
深遠で微妙な知識の話。まず、在る、そして、実体が無い。ここに何物も挟まない。清浄とも言える。無性であり、無相である。それを考えていく。自分にも当てはまる。そもそも、老化や老朽、成長や時間は無い。それらは原子の側にある。物質は、螺旋。振動、地
今までの瞑想の話は、観心門と言える。これは、天台などでも、初期にはあった。しかし、顕密が主流だった。仏教界は、四つに大別できる。教相門、事相門、禅門、浄土門である。教相門は、四諦十二因縁、中道、八正道、三十七科、諸経など。掃除をしつつ、学問
私は弱い者だという事が、認められた。ありのままで生きられない。自分を隠して生きる。傷付くのが怖い。そういう人間だ。周りは、確かに強い人がいる。傷付くのを恐れないような人。そういう人たちは、自分らしさがある。周りを気にし過ぎず、自分である事の
意外と神仏への祈りが聞かれるのだ。それは、人々が、偉いからだ。真心を込めて、働いたり、正直素直でいようとしているからだ。いつの間にか、清くなっている。という事。だから、神仏が感応する。キリスト教の主への祈りもそうだ。仏教に限らない。なぜか、
今日は、少し庭に出ていた。風を感じた時、自分存在も風の様だ、と感じた。ただあるだけ。それで空を強く考えた。貪着があった。仏教の目的は、これだろうか。そのまま瞑想を続けた。得失は横計だ。なぜなら、本当に得たのなら、常住のはず、しかし、失う。つ
さて昨日の続きか。どうも性欲がある。それで、やはりあった。我は性欲と共なり、性欲は我と共なる。それは光彩だった。そして、尾てい骨のあたり、色々気持ちがある。臀部もあるし、腰部もそうだが、自我を辿ると、尾てい骨に至る。また、頭頂のチャクラも、
せっかく今まで載せてきたから、載せよう。まず心情の環境。これは、簡単だ。そして、因縁のみ。諦める。次に、天がある。天と意思に関わるものだ。なぜ生きてきたか?ここにある。清浄に心から憧れた。光も求めた。最後に、力がいるのだが、我、執着だ。これ
お釈迦様は、歳をとるので、幻の様だ。と考えられた。全て、幻の様だと。空だからだ。しかし、ちゃんとある。空でちゃんとある、というものだ。微妙である。それで、それは人間精神にも言えると。空でちゃんとある。意味がある。内面はまさしく幻の様だが、ち
涅槃を目指す道。最後には仏性がある。これは、有でも、無でもない。霊。しかし、これも解脱する。因って涅槃となる。更に、解脱に三身ある。教に法、報、応と言う。合わせて、三界解脱の身となす。オン字三遍なり。ここに常楽我浄を実現す。仏果至れり。道句
基礎の生活。まず三つの三昧。縁起観三昧、空観三昧、苦観三昧。三昧にも三種、外三昧、内三昧、自我三昧。観と行、即ち善徳を積む事。これは両輪である。縁起は、無常無我であり、不生に至る。外内自我、不生を観る。空観は、実体無く、離れ、捨てる。外内自
空本然と言う。迷いの本は、貪執と暗愚である。貪りを昇華して、仏智を愛し依る。暗愚とは、道理に暗い事。即ち、無常無我を思わぬ事。この貪執を認めねば、進めない。有に着す。我に着す。知恵に着す。すべて貪執よりある。この世は、憂悩の世。生老病死に迷
ヨガについて、食事と食事の間が良い。風呂の前後は良くない。風呂の後、少し経ってから、ヨガをして寝た。次の日の朝、喉が渇いてしょうがなかった。夏は危険だと思った。熱を発するのが良い。肉離れなどないように、無理はしない。持続の時間も、十秒か二十
そろそろ、精進に、僕の世話心が仇になる頃だ。特にチャクラが通れば、知恵も直観も冴える。まぁ、基礎を作る人たちのために、一応載せる。まず、無願だ。これは、空だから、すがたはない。故に、願を持たない。そして、執着や、貪欲、これは、まず認めねばな
空門無相門無作門を分別す。初門は無作門である。禅を尊び、静寂に居り、外出を戒め、学問を絶ち、最低限必要な物だけを持し、戒律を得て、善を為し、悪を止め、身体から、習気を抜き、ただ、日に当たる如く、日がな無為に過ごす。作を戒めるので無作門という
知恵が深く強くないとできない。八正道でしか、できないもの。これが苦だ、苦の集、だとは分かる。執着だとも、欲望だとも、これには、正思惟でしかできない。執着は、粘液のように、くっつく。細胞の働きに様に、思える。生態的な、根源的なもののように思え
同じ状況ではないし、同じ事もしていないから、取り合えず、という事だが。ヨガをしていて、シャバアーサナという、死体になるポーズで、悟った。瞑想状態に入った。これは、脱力をしていくのだが、あごの力を抜いて、眉間、後頭部、首、肩と、と力を抜いてい
涅槃が阿羅漢の悟りだが、仏の悟りは、悟りではなく、道だった。苦が真実であり、集めてはならないもの、そして、欲望や愛が、苦因である。それを滅ぼすのが悟りであり、道がある。つまり実体無い、という考えの道。実体無い、という見方から、八正道がある。
最近はヨガをしている。そこでPCで調べてみた。そこでは、時代と共に移り変わっている事、今のヨガが、欧米を通して来ている事、太古のヨガは知りようがない事、ヨガの理論も、後から付したものらしい事などだ。いつも通り、何が大事か?考えてみた。しかし、
全身のリラックスが禅である訳だが、涅槃は寂静である。実体無いと悟って悟る。特に下半身は、これを知らない。我があるとしている。無我を言い聞かせ、従う。その時、衆生本来仏、と知った。これはいわゆる、調子の良い、外での自分は、無我に近いからだった
世間では若さが全てである。若さを頼みとする。女性は、若さを武器にするので、余計に、必死だ。その若さは必ず失われる。哀れだ。若い時は、年を取るのは、素敵になる事だ、と考えもした。しかし、そうではない。そうではなかった。ただ寂しい事だった。観る
人生の喜びを数値化する事が可能だと、誰か言った。最大多数の最大幸福を目指すのが政治だと。聖書的な事だ。無駄口も全て、神の御前で釈明しなければならない、とある。一念起これば、天地皆知る、とも言う。つまり、心の在り様も無限な様で、形式がある。形
脱魂に成功した。まず、非想非非想から、無所有。半眼に見えるも、自分の物ではない事。それから、凡夫は我を本にするが、仏は無相を本にする事。自分も世界も、共に感覚。感覚のみ。ぼわっとするようなのは、解脱させる。涅槃であって、火が吹き消えるように