学校で勉強するように、知識はカテゴライズできる。未だに出てこないようなものも、生み出されても、カテゴライズできる。それらは知識である。知識よりも、戒律や律法の方が、有益である。戒律律法よりも、実践や知恵の方が有益である。知恵には、無常無我、
聖書を丸呑みするのは、畏れるだけだ。これは、罪を畏れる事になる。多少の事を信仰で補填する。私はゲツセマネの異見を持つ。そして、半信半疑に戻った。改めて観ると、流れを理解した。モーセの導き、律法制定、ダビデ、ソロモンの栄光、列王の堕落と、律法
実体無い中を、どうに生きても、虚しい。それを考えると、貪愛をしりぞける事に気付くのは、そう難しくない。さらに、無常無我を思惟する事になる。からっからに音が聴こえそうなくらい、心を締め出した。自我を、だ。それで、涅槃と思ったが、またしても違う
とある家族の話。その内はクリスチャンの一家だった。父は、外食に連れて行って、好きな物を食べなさいと言った。もう外食には来れないかも知れない、と。娘は、何か大変な事があると察した。父は牧師だった。田舎の教会に行って、盛り上げようと、活動する。
八万四千の法門がある。善の万義のように。一々に学びがある。ただ、快楽を離れるを修行と言い、苦行に陥らないのを道と言う。祈りも、書も、歌も、道である。そして、瞑想が宗法である。大仏は大乗にいます。私のは、静、流、術であります。神も隠も賢も、道
景教を勉強して、正しい人的なイメージが湧いた。イエス様の事だ。景教徒でも、心をくねらせた人はいる。聖書を読み、解釈する人たち。これらについて、イエス様なら、罪人を招く、愛を行え、などなど言われるだろう。僕は、仏教徒だったので、瞑想すればいい
先に、善、愛、優しさ、平和と言ったが、これは福田である。耕す事に実り豊かに、刈り取るたびに、吉祥を得る。しかも、善はその中に、万の徳を含む。愛も万の徳を、優しさも万の徳を、平和も万の徳を含む。善に万の義を、愛に万の義を、優しさに万の義を、平
今まで許す事が大事だと言ってきたが、どうも懲らしめの方が返って救う場合がある。という事。話は替わるが、眞子さまと小室さんの問題。ちょっとひどくないか?いやバッシングの方が。僕は、呪おうかと思ってしまった。彼らは、人柄ではなく、ただ皇室、と言
人は心の牛を飼う。この牛を、右にも左にも、導く。牛飼いは、五体満足であるとは限らない。眼や耳が不自由かも知れない。しかし、牛を飼う。ここがどこか?無常の火の焼く処。本当の満足へ、導かねばならない。それには知恵が必要だ。それが本物かどうかの。