世間を離れるのが、要である。山に行くのとは違う。心が離れ、自由に、そして瞑想し、四念を考える事である。徳を積むのが大事だと言ったが、真言行は、それを代替する。真言行とは、讃嘆乗である。また阿羅漢に施し、仏陀に施す事でも積まれる。もちろん今は
瞑想を積んでいる訳だが、妄想と言うのは、凄まじい。妄想から、執着が生まれる。もし肉体や自分、人生の真実を知るならば、執着は離れるだろう。それが、不浄受苦、無常無我だ。妄想執着は、人間の全てと言っていい。そうして、離れるのだが、名色は、識から
無常無我を念じて、何かを出すわけだ。通常、何かが邪魔をしている。自我だろうか?それにしても、自由に考えれば、我はあると思う。見て、内側で、考えて、我はあると感じる。実際には、あるかどうかは知らないが、少なくとも、執着はしている。あるかどうか
解脱はなかった。脱出す事はできない。捨てる事しかできない。生老病死があり、健康に執着する。悪因善因あり、欲望がある。愛欲は、根本である。瞑想し、捨て離れる。その時、恵まれていると気づいた。兄や母でさえ、取り巻く環境さえ、総て、僕には恵まれて
最近、野鳥観察をしているのだが、意外と色々いる。まだ、勉強し始めて間もないが、ジョウビタキ、ツグミ、イソヒヨドリ、アカハラなどを見た。双眼鏡も買う事にした。野鳥観察には、声を聴くのも大事だ。本当に、色々いる。驚かさない、餌をあげない、という
密教とは、言辞仏教だろう。純密の経典を見るに、大別すれば、雑然と並んだ言辞と、次にこれをすべしという次第を持つものと、曼荼羅護摩のものである。始まりは、瞑想を効果的に成し集中するための言辞だろう。あるいは、菩薩や仏を観想し、菩提を観想するも
今も瞑想修行をしている訳だが、四諦の法と、坐禅は相性が良い。坐禅でなくとも瞑想はできるが、坐禅には坐禅なりの瞑想がある。四諦は相性が良い。ほとんどが、上か下かに、落ちていく。意のままになるものはない。意のままになるようなものが自我である。手
趣きある話。感受性は苦の因。心に対する考えも誤り。心ある人、とか、心がほっとする、とか、心温まる、とか。そういうのは、移り変わるもので、無常なもの。それらを求めるのは誤り。こういった事を、よく考えて、執着を離れる。すると涅槃が開ける。これは
未だ修行中ではあるが、基本に戻って。身は不浄である。汗や尿、便、膿、不浄である。貪欲を起こすなかれ。感受は苦である。喜びも苦しみも共に苦の因である。心は総て移り変わり無常である。総ての中に我はなく、万象に実体は無い。ここで、不浄身について、
阿羅漢と言うのは、無我仙人である。どのように、瞑想を覚え、無我を志したか、不思議なものだが、無我を究めたのが、阿羅漢である。密教なども勉強したが、やはり、無常無我だ。実体無いと、中心が悟るのである。仏教は、阿羅漢の悟りを、大衆に施与する。自
チベット密教をしばらく、勉強していた。妃を抱く明王なのだが、怖い。これは、悲しみと怒りの幻化だろうと考える。顕教とは、苦しみを知り、除く事だ。密教は、秘密身と三界解脱。チベット密教は、生起次第と究竟次第で、解脱を目指す。ここに中道の自由な瞑
無常と言うのは、恐ろしいものだ。老いれば、孤独になる。知り合いも減る。身体も不自由になる。しかし、今、私たちは目の前の事ばかりにかまけて、見ようとしない。まるで幻を見てるようなものだ。そうして、死を前にする。では老いる事を考えれば良いのか?
今まで考えなかった。無我を行ずる。何かを得て仏と言うなら、縁起のもの。無常のもの。であれば、不生の知恵でもって、自我が無ければ、仏。菩薩も仏も同じ。ただ凡夫ではないと。凡夫は自我の垢多し。無我にして垢無しを、仏とも菩薩とも。さて知恵にて、不
修行は色々ある。世間を離れるのが修行の第一だ。世間に反対する修行もある。苦行はそれだ。心は世間にある。仲間に入れてもらえないので、変わった遊びをして、注目されようとするかのように。満行すれば、爽快感と達成感に満たされる。そして、何々行者とし
今まで、仏だ、菩薩だと、精進してきたが、無常無我を究める処があり、それは涅槃だという事だが、これが涅槃だと言うようなものが無い。ただ、瞑想しても、あまり動かない。そうなる。阿羅漢くらいであろうか?そうなると、ただの仙人と等しい。仏教菩薩は、