取って置こうと思っていたが、挙げてしまう。自我を訪ねれば、腰下にも至る。精根や、根幹ある。クンダリニーを覚醒させることもできる。人間は苦行と快楽である。空から空へ。まるで神の息。神や世界を知ろうとも、知恵に過ぎず。心でしかない。瞑想深まり、
律法は大変厳しい。これを護るのは大変だ。故に、聖なる民とされる。また、神の威光もあり、ソロモンの栄光がある。あの地で、イスラエルを立ち上げる。神の御業。キリスト教は、罪人から始まり、イエスの愛を受け取り、裁きの日に救われる。また、讃美や聖書
悟った自覚がある。しかし、あえて説かない。この道は、小乗には仙である。なぜ説かないか?仏行を知ってほしいからだ。これは、敬愛と充実、功徳がある。大聖の業である。悟れば、これを負う。楽しみとなる。まぁ菩薩行だ。今、ふさわしく、法華経の時。説か
治すために瞑想をしている訳だが、実は、治った自分などない。逆に、病の自分もない。そういう場所ならある。健常な部分はある。病の部分はある。全体が病、でもなく。全体が治った自分になれるという訳でもない。そういう部分があり、そういう部分がない。と
キリスト教では、くびきをほどく。というのがある。悩んだところで何になるのか?寿命でも延ばせるというのか?そんなことはない。と。意識ごと、悩みもくびきも捨て去った。ほとんど、今に関係のない悩みだった。掃除しなきゃ、とか思っていた。そうして、そ
パワハラ体質もあるが、基本、勉強だけしてればいい。という校風だった。それは結論だ。今くらいになると、ようやく納得できる。理解もできる。私は、自分が治められなかった。青かった。まぁしょうがない。結論は正しいが、できないのだ。愛や理想を考えもし
禅も仙道も変わらん。仏家が良しとするのは、世界を知り、離れる事。解脱だ。仏家の始めは何だろうか?燃燈仏と言う。仙に似て、築基精進、因滅、教え学び、身外身であろうか。神と仙は自然にある。仏家は、賢者の在り方。知恵で選別し、証す。仏陀を大仙と言
神様は善を為す、そして草や花を愛する。孤独で、老人で、お優しい。そういうイメージだった。ところが、瞑想して訪ねてみると、彼より上の方がいた。それが、厳かな、天の王だった。老人は、私は王ではないよ、と言われた。王は、厳しい。全てを造られ、治め
その時の情態を手掛かりに、瞑想する訳だ。クンダリーニの蛇はない。精も、知恵が深まれば、自然と解脱する。今までの瞑想のように、解脱する。ただ、情念だけでなく、記憶も関係し、人生の根本を持つから、非常に見つかりにくい。涅槃を目指して、あらゆる情
正式なやり方を書いておく。導引法は、盤座(胡座に似て、足先を膝裏に挟む)にて、鎮魂し(自然に任せ、丹田に集中する)、腹を抱え、左の歯32回、右の歯32回、前歯32回、終えて、鼻より吸い、口より吐く。この時、2分残し、二分余計に吸う。この時、
無声の呼吸法を勧める。いつでも、無声であるくらい。ヨガも、これでやる。慣れればすぐできるのだ。澄んでくるし、感も良くなる。横になって、無声の呼吸でいると、力が抜ける。更に、そのまま無声でいると、余分な気が抜けた。さて、また、瞑想すると、ある