瞑想は、高位になるほど、
実はやりやすい。
慣れない始めの方が大変で、
中途でも、すぐ道を外れてしまう。
また、上位でも、悟ったと思い、しない。
悟りの体は、見ても見ず、聞いても聞かず、だ。
それは自我を辿り、自我の芯を抜いたからだ。
見ても見ず、これは無執着。
故に適切、故に正しい。
これは、生活においても。として、寿も正しい。
始めの頃は、とにかく習慣化する事だ。
夕方、必ず禅。そうでなくても、瞑想は必ずする。など。
一日一回する。あとは、仏を礼拝する習慣など。
中途では、色々な事ができてしまって、本道を疎かにしがちだ。
瞑想は必ずするにしても、テーマが、定まらない。
これには、解脱、涅槃滅度、真理の順に。
また自我を悟るを最上とする。
道は自我を辿る事である。高位でも、自我を辿って悟る。
だから、他の瞑想は、なくてもいいくらいで、自我を悟っていけば良い。
それには、振り返る事だ。
今日一日の自分を振り返る。
または昨日の瞑想を振り返る事だ。
その続きをすればいい。
上級者は、悟ったと思うものだ。
まぁ、それでいい。ただ、利他行を続けねばならない。
あとは悟っても座る。
生活習慣を保つ。
聖胎長養に入ればいい。
仏は、クンダリニーを完全に覚醒させ、
自我の根本を悟り、煩悩を滅尽し、三界に自由。
また、貪愛執着を断ち、教説に自在、
法の王である。
みなもこの道を行くなら、法王の子、法王子である。
精進を疎かにするなかれ。
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