現代の病の、鬱と躁、ここに処する。鬱と躁は言わば、引き籠もりと享楽である。これを戒める。内奥に何があるか?性愛と憎しみと怒り。まずはこれに克つ。慣習行力によって、である。仏、あるいは聖書を置き、昼は起きていて、夜は寝る。家事を無理せず手伝い
解脱解脱と言うが、解脱の解脱たるは無い。仏典には虚妄を離れるを解脱と言う。悟りとして、何が悟るのか?本覚のようなものもない。悟る主はいない。無常であるから、得たるもない。瞑想の深さを以て、仏陀とは言わない。導引を得て、もって到る。菩薩道のみ
幾つかテーマを挙げたい。死があるのに、仏道を行くはなぜか?無常なのに、仏道を行くはなぜか?因果は無常の事、因果でない悟りはあるや?そもそも、仏道の極致はなにか?涅槃か、知恵か、仏身か、悟りか。涅槃として、仏の生を願うなら、矛盾する。いかに?
神々という言葉は聖書に、新約も旧約もある。三つの立場になろうか?神は唯一であるから、言わない。これは、律法の第一に基づく。しかし、神は孤独ではあり得ない。独りと言うのはあり得ない。律法主義ではないから、主への愛を優先的に、神々を認める。そも
イエス様の血の前では意味をなさないのだが、取り敢えず、載せてみる。まず、神の命によって、天が、地が、生命を生み、進化させた。次に、神が、御子を以て、自ら働かれ、造られた。そもそも、神は自由に創りもす、命令でも、創れる。まず、地球には太古、一
神学入門を読んだ。私にとってショッキングだった。第一に、十字架は、神の痛みであり、血は、畏れるべきものであった。それほどの愛が行われた。もう一つは、クリスチャンと呼ばれる人でも、ある人は律法主義、ある人は、三位一体を崩す者だった。例えば、神
たまには自由に書いてみる。独居然としている。楽しく、快い。読書などをして、静的だ。無茶に出掛ける事がなくなって善かった。いろいろ分かる事もある。時は空しいか。実体無いものだ、何物も。神さまはいるな。許しは必要だ。相手に災いが来ようと来まいと
アダムとイブは、善悪の実を食べた。そして、追放された。その後、その中で、善を行い、悪を避け、神の御許に召された者がいた。その次には、律法をもたらした。これによって、悪を畏れる事を学んだ。何人かの、特に預言者に、善を行い、悪を畏れ、神の御許に
まず根があり、これは信仰である。聖書を読む、善を積む、真理を想う、主を想う、これらで、根は深く強くなる。幹は聖霊である。これは清め、霊的成長と導きを得る。従って、進む。次に枝葉を咲かす。これは神の恵みと愛であり、また、他者に対しても、恵みと
キリスト教を学んでいた訳だが。仏道とキリスト教の違いを簡単に言えば、安楽か、幸福か、である。安楽は、静と安定、無我。幸福は、信仰と聖霊と恵み、愛。実に、どちらも善行を勧める。神のお褒めを求めるか。因果応報で、善報を求めるか、または仏果を求め
世界史を勉強しているのだが、教会の世俗化堕落とある。それで、ベネクティト戒律や改革が出てくる。腐敗は酷いのだろう。では、真正のクリスチャンとは、どの程度いるものなのだろう?また、今現在、腐敗はどのくらいなのだろう?これは仏教でも言える。僧侶
政策をまとめてみた。沖縄の半自治。経済特区。貿易の減少及び関税。税制の再検討。精査。国民から返さなければならないお金を国債の返済に回す。聖域なし、坊さんも平等に扱う。また、税の中から、減免し、国債に充てる。実質減税みたいなものか。以上が、政
西欧は、先進国である。それは民族的なものか?土地的なものか?信仰的なものか?そのように見てしまう。三つ挙げるなら、民族混淆の地、キリスト教、征服王朝である。東洋では、土着的王朝が多い。儒教や仏教など、ロマン志向だ。民族性も、土地に基づいてい
青春というのは、闇であろう。学生時代楽しかったという人は珍しいと思う。それは、競争が強い。いじめや裏切りが多い。この人たちは何のために学校に行ってるのか?彼女作りや、有名になる事を望んでいる。特に高校、大学は、そんな雰囲気だ。自然素朴でいれ
今、世界史を勉強している。面白いのだ。さて、世界史には、何々朝というのが多い。これを日本に当てると、なかなか面白い。いわゆる二期に別けられる。神武朝時代と武家将軍時代だ。天皇が二千年続く事が、如何に重大な事か。そして、革命とGHQ、民主政日本
仏教の知恵とは、どこまで通用するものだろうか?常楽我浄は神だろう。恒常は天界だ。根源に親しいのは、涅槃である。宇宙では、無知感情情熱死を度する。無常無我不浄受苦は、娑婆の要であり、方便だ。実知は何か?無相だろう。色界の天に、知恵は必要だろう
神は、歴史の始めからおられた。ユダヤ教は、祭祀の教え、キリスト教は国民の教え、旧約から愛を換骨奪胎して、修めやすくした。イスラム教は、兵士の教え、日に五度礼拝し、聖戦を言う。これで、神の国は準備ができた。そして、神は王となられた。さて、仏教
過去が辛かった。過去を思い出す程、未来に焦がれた。過去が減り、未来への気持ちも落ち着いていった。これは、過去と未来の中道を生きた。と言える。過去でも未来でもない、という時、愛と人の和が、自分の中にあった。人は去っていく、裏切られる事もあるだ
無常無我を常々、よく考えよ。と言う事だが、実体無い、と見通する。実体無いと見る事は、よく解脱す。奥底であるが、手前である。手放す事が叶う。見通すれば、全て手放す。我浄も解脱するが、恒常を解脱しもする。これは、精神的快楽とも言える。静浄故に。