通常、解脱を果たせば、法園を開くもの。それが仏である。そもそも、解脱身は仏が最も与えたいもの。今は、効率よく、それだけを賜った。他にも、いろいろ学ぶ事はあるのである。この先で言えば、仏に学も善し、本腰を入れて仏行を成すも善し。自由である。菩
解脱はあった。そもそも、人の認識力。人と認識する力は強い。自分を人と認識する力も強い。極めて強い。しかし、諸法無我とすれば、不生であり、人体とは認めない。なぜなら、通常、頭で認識すれば人体である。しかし、例えば、尾てい骨を中心にしたら、見え
心の謝り癖を付けとくのは良い。何か、心に罪悪感を抱えた場合、すぐ、すいません、すいません。と心で謝る。まぁ、それで縁がチョでもある。最近は、苦しい世界も、楽しい世界も、心の中だけで、この世界には無いと分かってきた。それに、直したい自分や、成
一とか、情熱とか道とか。年相応に考える。伝統がそういったものを考えさせる。昔から、馬鹿の一つ覚えみたいなので偉業を成した話がある。あるいは善心による果報なども。今、特に、特別な何かは感じない。至って普通。至って凡庸だ。病気に関しては、瞑想が
抱朴子は良い本だ。仙道は好きなのだが、坐禅してればいずれは出来るかな、と思ってたものは、出来なかった。呼吸が静かになって、深くなって、していないのと同じくらい。とか、永く、無呼吸でいるとか、胎息とか言うやつだ。抱朴子は、金丹の薬の作り方があ
煩悩とは、初心には、認めたがらないものである。ここには、道の修練がいる。欲望とは、無くせないものである。しかし、少欲知足のように制する事は出来る。迷いとは、心の動き、妄想である。よく鎮めて、道に向けねばならない。生死とは、この一生である。全
道は永く険しい。得たと思って、また歩かねばならない。無為に、静かに過ごすも、疑問も出る。ここまで清浄に来て、何をするのか?しかし、無我と言う時、一体この命は何なのだ?と思った。しかし、無常無我は、この命ではなく、総てだ。つまり、総ての執着を
最近は昼寝をがっつりしてしまう。アランニャの行と言うのがある。静閑な場所で、眠くなったら、ヨガや呼吸法をして、瞑想して過ごす。いわゆる僧伽だ。そのつもりだが、私は怠け者らしい。ただ昼寝は、お釈迦様は、惑溺ではない。煩悩にまみれるのを惑溺と言
無常を畏れ、空を念じ、自我を去る。捨てきれて、だとしたら、瞑想の技術がある。瞑想がある。これも捨てる。坐禅は坐禅に非ず、坐禅と名づく。本位を去る。簡単に言えば、捨てて捨てきって、坐禅を捨てる。この時、奇しくも、釈迦の禅を想う。八正道か、何に
朝の重圧から、内観をしてみるのだが、なかなか、悟るものがある。その続きで、しばらく瞑想していたのだが、はて、上を見てみるか?と。いつもの宇宙がある。川面凡児氏の、いくむすび、とは、こういうものかと。あるいは、たるたま、たまとまるたまとは此の
はたして執着はあった。腰下の堅いのは、執着だった。頭では、空だと知れる。しかし、心は、身体は、空だとしない。それで瞑想がある。自我は執着と共にある。苦滅の道を行く。滅諦はある。また法華経に、虚妄を離れるを解脱を得ると名づく、一切の解脱を得ず
手放す程に、調子が良くなる訳だが、最近では、手放すものがあまりない。言葉として、感覚を手放せ、価値観を手放せ、学んだ事を手放せ。としてきた。ウロウロしながら、つまらないなぁ、とか、暇だなぁ。と言うのは、働いていた感覚や、日常の記憶がある訳で
余り覚えていない。確か、捨てる事、縁起である事を考えた。自我を辿る事で、見えてくる。修行という事で、愛の修行をしていた。愛着や、命を辿り、本を見る。そんな事もある。やはり幼い時の愛情は強く記憶されているようだ。自我にも強く根付いている。腰か
ずっと不思議だった。無常無我は、なぜ、味がしないのに、楽になるのか?それには、仏教が何か?という事だった。こういう感じ、というイメージを持っていた。まぁ雑学の普遍的な答えだと。しかし、違った。雑学も心の因縁という見方。だから、答えどうのでな