吹雪の中のピクニック家内が10年以上前からベビーシッターとして時々お手伝いしている家の子供さんたち2人(小学校1年の男の子と6年の女の子)が遊びに来ました。半年前から彼らが楽しみにしていたイベントです。自慢の肉団子、おにぎり、たこウィンナーな
写真1は広島電鉄750形758、1971/5/1広島電鉄軌道線広島駅にて。元大阪市電1601形で、14輌譲渡されたものの内10輌が750形751〜760となりました。既に8両が廃車となり、2輌が車体上部を取り払って花電車用台車として残されています。写真1の758は貨50形貨52とな
写真1は二階建電車5、1969/3/27大阪市電港車庫にて。5は市電50周年を記念して1953年に1923年製720を改造して新しく製作された復元車です。オリジナルの2階建電車は1904年〜1911年に主として築港線に就役し魚釣り電車、納涼電車として親しまれました。写真2は1
昨日の話ですが、家内が仲良くしている近所の奥さん3人を招いて井戸端会議が開催されました。年に何回か持ち回りでやっているらしい。毎回自慢のお八つを持ってきて、延々(付き合いきれません)とおしゃべりに興じているようです。今回は当家が会場、早春の
写真1は1711形1739、1967/10/15大阪市電港車庫にて。1947年に日立製作所で30両、若松車両で10両の合計40両が戦後初の新造車として製造されました。戦時中の1942年に登場した1701形と殆んど変わらない設計で、全長が13.7mある大型ボギー車です。写真2は1800形1
昨日の夕方のことですが、嫁さんと一緒に隣町の盲人施設に行ってきました、つまり糖尿病対策の散歩。三男が先週そこの非常階段の手摺に白ペンキを塗る作業を頼まれたところです。慣れないペンキ塗り作業なので出来栄えは大丈夫かなと心配していたんですが、OK
昨日(6/20)夕方の西空は気味が悪いくらい濃い灰色の雲が、まるで雲の壁が押し寄せてくるかのようにそびえていました。今朝になって空を見上げてみると太陽は写真1のように輪郭が薄く見えるだけ、とても弱弱しい光を放っていました。写真2のようにいつもは見
MBSI(オルゴールの愛好家団体)のメンバーであるコーネリアスご夫妻が、こちらのオルゴール博物館を見学に来られました。MBSI 日本支部としても歓迎しようというわけで私にも声がかかりました。まず神戸市の六甲山にあるオルゴールの博物館へ同行、ここには
写真は1969/3/27大阪市電梅田善源寺線都島車庫近く。大阪市電はいつでも行ける身近な存在であったため最後の営業区間の廃止直前まで出掛けませんでした。撮影したのは1969/3/31の市電全線廃止の4日前でした。繁華な梅田からかなり距離があるので、まだこの辺
庭の木蓮が満開になりました。家を新築したときにお祝いとしてもらった白い木蓮で、植えてから12年です。一昨年はヒヨドリがやってきて全てのつぼみを食べてしまい、花びらの残骸が木の根元にじゅうたんのように散っていました。これはいけないということで透
写真1と2は頚城鉄道ホハ1形ホハ3、1966/8/7新黒井駅にて。頚城鉄道は開業に際して1914年に6輌のオープンデッキを備えた木造ボギー客車を日本車輌で新調しました。全てほぼ同じ外観で、ディーゼルカーに改造された特別客車ホトク1以外は原型を保っていました。
写真1と2は頚城鉄道ホジ1形ホジ3、1966/8/7新黒井駅にて。ホジ3は1914年の頚城鉄道開業時に日本車輌で作られた客車ホトク1を、1932年にガソリンカーに改造したものです。写真2はホジ3の車内です。中央で大きな顔をしてでんと座っているのは床下に収まらなかっ
写真1は頚城鉄道DB8形DB81、1966/8/7百間町車庫にて。元は1945年に仙台鉄道が協三工業で新造した戦時規格型(JB8形)蒸気機関車B82です。1952年大阪の森製作所で下回りを再利用して2軸凸型車体のディーゼル機関車に改造されました。1955年に協三工業でかなり
写真1と2は頚城鉄道2号蒸気機関車、1966/8/7百間町車庫。2号蒸気機関車は1911年コッペルの製造の9tCタンク機関車で、当初は建設会社大丸組が国鉄大井工場の建設工事に使うために4輌輸入したものの内の1輌です。1966年に廃車となり、本社ビルの前で保存展示さ
頚城鉄道の始発駅新黒井駅舎は明治〜大正時代に流行った下見板貼りの西洋館で、元々はスタンダード石油株式会社直江津工場で外国人宿舎として使われていたものです。豪雪地帯に必須の1階差掛屋根は駅舎として使用する際に追加されたものでしょう。郵便物の授
写真は頚城鉄道の列車、1966/8/7。強行軍だった夜行列車の翌朝、眠い目をこすりながら新黒井から乗車したホジ3+ホハ+ワフの3輌編成列車に乗って車庫のある百間町を目指しています。夏なのに濃い朝霧、広い稲田に列車が航跡(ウエーキ)を巻き起こしながら疾
本日は墓参、ついでに高い墓地から遠くに見える広い道路を初めて走ってみました。僅か数分で兵庫県立有馬富士公園という広大な公園に行き当たりました。公園の中央に広い湖水(ダム湖)が広がり、対岸に茅葺の農家が見えています。母屋に入ってみると・・うん
写真1はC56形C56 125、1966/8/7信越線糸魚川駅の跨線橋から。C56は関西地区では見られないロコで、私のような都会人にとっては高原の白樺や針葉樹林を抜けて行く小海線のミキストトレインや、半島の突端にある漁港に向かって行く七尾線のレ(冷蔵車)を連結し
写真1はED70形ED70 14、1966/8/7信越線糸魚川駅構外の側線にて。貨物列車の列車単位が大きな北陸本線では、EF70形の台頭により小型のED70形は既に二線級の扱いでした。写真2は東洋活性白土株式会社の国鉄側積替ホーム、倉庫と側線です。下見板貼りの魅力のあ
一緒だった先輩たちと別れて、大館で同和鉱業小阪鉄道、八郎潟で秋田中央交通の取材をしながら帰路につきました。黒井駅に降り立ったのはもちろん軽便の頚城鉄道を取材するためです。写真1はC57形C57 108、1966/8/7信越線黒井駅にて。ナンバープレートが傾い
写真1と2は8620形68620、1966/8/5五能線五所川原駅にて。シールドビームのヘッドライト、背の低い異様なデフレクター、クルクルパーの付いたストレート煙突と、イギリス的にスマートな86の魅力を壊す要素満点でした。五能線はこの頃でも列車の本数がとても少
私の大好きな9600形が3輌も扇形庫から有火で顔を覗かせていました。左側から69602(1922年川崎車輌製)、19602、69635(1922年川崎車輌製)。 写真2は9600形19602、写真3は休車で機関区の端に留置されている9600形39662。ヘッドライトがシールドビームなのは
写真1はC62形C62 38、1966/8/4東北本線青森機関区にて。大きな機関区に見られる大型の給炭台の下で石炭を積み込むC62 38。写真2はD51形D51 427、1966/8/4東北本線青森機関区にて。1940年日立製作所で作られました。容量3000リットルの大型重油タンクをテンダ