小雨の生憎のお天気となりましたが、本日も無事終了いたしました。
ウクレレ、クラッシックピアノ2名、AI楽曲製作者、ミュージカル俳優、ジャズピアノという今回も様々なジャンル。
ご参加くださった皆様、陽紀先生、ありがとうございました。
私もいつも受講させていただいているのですが、今回の質問は今までとは全く違う観点からのもの。
チュニジアのドゥッガの古代劇場でとても自然に本来の自分のままで歌えた経験をしてからというものの、なるべく奏法のことを考えない様にしている。
もちろん、そんな中でも、いやむしろそうするからこそかもしれないけれど、気付きは怒涛の如くあり、それはそれで研究者としての歓びではあるけれど、演奏者として本番では一切それを振り捨てて挑みたい、とずっと思っていた。
より音楽自体に集中したいし、一瞬一瞬の全てを捧げたい、と思うようになってきたので。
あの不思議な至福の体験は、だからこそ得られたものだったと思う。
もちろん、そのように導いてくれた2000年前の古代劇場の「場の力」が大きかったこともあるけれど。
陽紀先生からのご助言は
「フルート自体が古代劇場だと思えばいいんじゃないですか?」
とのこと。
「実際に白川さんがその場で既に体験されていることなので、その場をフルート自体にすれば、良いのでは?」
これは全く思ってもみなかったことなのでびっくり。
「実はいつも、どんなところで吹いていてもあれ以来、目の前に広がるドゥッガの古代劇場を思い浮かべて吹くようにしていたのですが・・。」
「ああ、それはそれでもちろん良いと思いますよ。何しろ実際、体験されているのだから。でも、例えば、日本国内で神社とかお寺で演奏するような場合、『ここは古代ローマの劇場』というのもやりにくくないですか?」
・・そりゃあそうだ。通常のコンサートホールやサロンならまだしも、実際の神社やお寺さんで古代遺跡は想像しにくい。第一、実際に存在する「その場」にも失礼だ。
「なるほど、フルート自体が私にとっての古代劇場であり、神殿になるのですね。」
こんなこと考えてみたこともなかったけれど、そのご助言後の演奏では、かつてないくらい自由に、あのドゥッガの古代劇場で歌った時と同じ心地よさの中で演奏出来た。
「今度の本番では初代だけでなく五代目の銀のロットも使うつもりなんですけれど、こちらは、同じ古代劇場ではなく、また別の場所にした方が良いのですよね。」
「ああ、それはもちろんそうですね。」
ということで、五代目はカルタゴ発祥の地、ビュルサの丘の遺跡にすることに。
ディドが牛の皮を細く裂いて、それで囲って手に入れた土地。
あの遺跡で歌う、という訳にはいかなかったけれど、心の中では五代目ロットでタルティーニの『捨てられたディド』を吹いていたので。
愛されている道具、それも特に楽器というのはみな夫々生き物というか、人格?笛格?があるものだけれど、とりわけ100歳越えのロット達は、もともとその波動は強い。
なので、こちらのセンサーがあまりに敏感になると、ちょっと疲れすぎてしまうこともあり、敢えて鈍くして対峙する、ということもあるのだけれど、それはまだまだ笛達への敬意と感謝が足りなかったということもよくわかった。
物でも人でも、最初こそ感動し感謝はするものの、いつの間にか「当たり前」になってしまって、その感謝も薄れてしまっていることにも気付かされた。
一つ一つがみな、かけがえのない奇跡的な「稀有な出会い」だというのにね。
ログインしてコメントを確認・投稿する