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2019年06月29日00:47

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エロ本を作っていた、その6

 昭和が終わろうとしていた頃。筆者は貧乏のどん底でエロ本を作っていた。筆者の周囲には、同じように貧乏のどん底であえぐ編集者たちがいた。皆、ただ若かった。しかし、同じ年齢の別の若者たちは、器用に稼ぎ、楽しそうに遊んでいた。サーフィンとスキーが流行していた。海外旅行もブームだった。しかし、筆者の周囲の編集者たちは都会の片隅で昼間から暗い部屋でエロ本を作っていた。海外に行く者たちもいた。たいていはインドで、しかも、帰国した話は聞かなかった。
 エロ本でなくても、稼げる本がいくらでもあった。稼いだお金で女の子と楽しく遊んだほうがどれほどいいか、しかし、そんな器用さのある編集者は少なくともマイナーエロ出版社にはいなかった。
 二十四時間仕事をして、見返りは、お金ではなく、女の裸を見る、触るぐらいだった。安い居酒屋で酒を飲むのほどの利益もなく、また、そんな時間さえなかった。
 それでも必死に自分のエロ本を作っていたのには理由があった。おそらく、あの頃、筆者の周囲にいた編集者のほとんどが同じ理由だったと思う。その理由とは、御旗だった。筆者たちの作っていたものは本ではなく旗だったのだ。旗を掲げ仲間に自分がそこにいることを知らせていたのだ。その旗を見た仲間は、そこに集って来た。読者ではない。お客さんでもない。本という形の御旗の元に集う同志だったのだ。
 一冊のマイナー本が発売されると、それを合図に手紙が集まった。全ての手紙に目を通しても、それほど時間はとられない。その程度の数なのだ。しかし、どの手紙も熱いものがあった。中にはその筆圧だけでも熱さの伝わるものがあった。
 また、同志ではないものの手紙もあった。つまり、この旗を掲げるのなら、自分の思いも御旗にしてもらえるのではないか、と、そうした要請の手紙なのだ。一緒に旗を掲げ同志を集いましょうとの誘いなのだ。その中でも、切腹とか磔とか女闘美の人たちの思いは常に切実だった。もちろん、筆者にも応じられる誘いと、応じることの無理な誘いがあった。あまりに熱くなり過ぎて脅迫のような手紙まで混ざった。そんな手紙さえ、しかし、もらえば嬉しいし、その気持ちに応えて返事を書いたものだった。
 筆者の作るものは男には人気がなく、その代わりに、他の本に比べ女に人気があった。そこは他の編集者に羨ましがられたものだった。しかし、当時は、まだ、男の人気を得なければ本の維持は難しかったのだ。つまりは、売り上げだけでは本は賄えなかったのだ。御旗の元に集う同志がお金を出し合って撮影をする、イベントやパーティをして、その様子を記事にする、自分の女を本に提供する、そうしたことがなければ本は出版社のもらえるかどうかも定かでない製作費だけでは、すぐにつぶれてしまうのだった。ゆえに、読者は男のほうが有難かったのである。
 編集者の中には、読者を支援者として、その読者たちから食事をご馳走になることで食費を賄っていた者までいた。
 それが昭和のエロ本だったのだ。まるで読者たちの代筆業のようなものだったのだ。しかし、そこがよかったのだ。楽しかったのだ。マニアたちが集うための御旗こそが昭和のマイナーエロ本だったのである。
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