11月3日に変化した奏法のまとめ。
大前提はふんばらないということであるけれど、特に脚、腹での踏ん張りは全ての連結を阻害するので、この奏法の一大基本前提であると言って良いだろう。
「薄氷を踏む」時に人は決して腹に力など入れない。
これがあればこその「屏風座り」
今回の奏法の根幹には、この「屏風座り」があったことをこの一カ月で再認識。
その上での「胸に楕円の鏡」であり「水かき」に伴う「内腕」である。
そして、「狛犬のブレス」
これで、下半身は自ら意識をしてではなく、構造的に力を発揮するように働くし、上半身は抜ける。
自力ではなく他力だからこそ、もたらされるエネルギー。
「上虚下実」といっても良いのではないかと思う。
この奏法になって数日後、バッハのソナタを吹いていて、寝てしまったことがあった。
何度も吹いているので、ほぼ暗譜している、ということもあったけれど、眠るなんていうことは初めてで我ながら驚いた。
思うに、それだけアンブシュア周辺や首の緊張がなくなってきた、ということではないかと。
過去50年近く、フルートを吹いてきたけれど、こんなことは初めてで、思わず、息子が小さい頃に、遊びながら、頭をこっくりこっくりと揺らして眠ってしまったのを思い出していた。
ふくらはぎ、太もも周辺は以前にも増してとても使っているので、その分、当初は疲れていた、というのもあるかもしれないけれど、フルートを吹きながら眠るなんて通常はあり得ない。
少なくとも私の場合はそうだった。
眠りというのは、脳にとても関係しているから、おそらく、脳に近い口元に力みがあれば、訪れることはないのではないかと。
アンブシュアの自力での力みを廃して、その変化をある意味地球の引力に任せるこの方法は、いわば、「他力奏法」ともいえるし、四足歩行的生き物本来の動きとも言えると思う。
どうしても説明するには、上記のように、甲野先生の術理や言葉を借りてでしかできないけれど、これがもっと自分なりの言葉になってくると、また大きな変化が起きるのかもしれない。
10月29日の嵐の日の砂原さん、阪口さんとの宴会でのお話もかなり影響していることにも気付く。
一流のピアニストと一流の脳研究者との会話に飲むことも食べることも忘れて聴き入っていた5時間半。
口元の緩みは、指先の緊張も緩和するし、その逆もまたそう。
前脚の付け根は首周辺なのだから、これまた当然のことではあるけれど・・
にしても、人間というのは、本当になんと自然に逆らった、不自然なふるまい方を強いられてしまった生き物なのだろうか、とも思う。
さらに楽器演奏なんて・・もっと不自然なことで。
不自然の上乗せである。
だからこそ、せめても、と、より本来の自然に憧れてあがいているのかもしれないけれど。
11月2日までの私のフルートの音は、その中に沢山の細いトゲトゲが入っていたと思う。
特に高い音になればなるほど。
アンブシュア周辺を自力でコントロールして出していたのだから当たりまえとはいえ、その自力コントロールの力みが、不純物を生み出していた。
いわば「間に合わせ」の似非の音。
今は、その細い針のような、トゲトゲがなくなって、よりクリーミーでなめらかに。
難しいのはどこまでゆだねられるか。
「後は信じることですね」
と前回の音楽家講座で仰ってくださった甲野先生の言葉が蘇る。
「他力」というのは、ある意味「自力」よりもハードルが高いかも。
実感のない動きにどこまで身をゆだねられるか、だから。
だから、ゆだねられるようになるまで、徹底的に楽譜を読み、さらうことが必要になってくる。
眠れるくらいまで。
脳の働きと口元周辺の緊張も大きく関係すると思うから。
脳がある程度眠っているくらいの状態の方がトゲトゲは減る。
トゲトゲも音色の内か?とも思うけれど、こういう身体と耳になり、その響きにになじんでしまうと、もうノーサンキュー。
サチモス風に言えば
「♪広くて浅いやつ、もうグッドナイト♪」(ステイユーンそのまんまだ!)だし
「♪硬くてi痛い音、もうグッドナイト♪」でもあり、
「♪自力での高音、もうグッドナイト♪」である。
こんなレッスンを本日したところ、武術の講座にも参加されている生徒さんから一言。
「先生、『夢想流』ですね!」
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