音楽家講座なのにお天気。
そして、始まって以来の小人数の10名程の講座となりました。
主催者としては先生に申し訳ない思いもあるけれど、元々、内々の集まりで発足したこの講座。
先生からもその時々の流れ、必然というのがあるから人数に関しては気になさらないように、と仰っていただいてはいるものの、やはり気は重い。
そんな少し憂鬱な気分で出陣した講座でしたが・・
少人数ならでこその、素晴らしい、濃い時間を過ごすことができました。
紐ももちろん凄いけれど、今回は、なんといっても、先生の進化具合が尋常じゃない。
私も何度かやっていただいたのですが、さっきまで遠くにあった先生の手があっという間もなく鼻先に。
・・・瞬殺・・完全に仕留められている・・・
昔、宮崎駿監督が、甲野先生の動きはうねりやためがないので、アニメにはならない、と仰ったのは有名な話ですが、今回のものは、間のコマ、フィルムが何枚も欠落し抜けてしまって、最初と最後しか写っていないような感じ。
「始まると同時に終わっているのです。」
「それは、急に遠くから鉄砲で撃たれて、死んで行く時のような感じで・」
とこうして書けば書くほど、訳がわからなくなるけれど、まあ、とにかく体験してみてみて!
という気分。
子供の時、芋虫を葉っぱの先でつついて遊んでいたら、急にニョキっと触覚が出てびびったことを思い出した。
そんな感じで、何の気配もなく、ワっと迫る先生の手。
それは本当に、古の伝説の抜刀を体感させていただいたような貴重な体験でした。
人数が少なかったので、私も講座の中で、みていただくことに。
素肌寝をするようになり、カルカントさんの呼吸になり、と相当モデルチェンジしたのはいいのですが、なんというか、それまでの嘘と間に合わせが減った分、とても無防備なメンタルになっている自覚はあった。
今までよりも、素直に緊張する、というか、本番での「取り繕い」がすっかり減ってしまっている。
その自覚があればこそ、での対処方法を求めての質問と受講でした。
案の定、とても緊張し、指はもつれるは、息は足りなくなるは・・その上、吹き始めてから「あ、アンプまだだった・・」と気付くは、で散々だったのですが、そういう状態になったことが、むしろ良かった。
全ては、自分の心の問題と言う事を痛い程自覚できたから。
バッハのトッカータとフーガはいわば強い対戦相手。
私は相手が強い、と思ってしまうと、どうも、だからこそやっつけてやる、とか勝ちたい、とか思ってしまうところがある。この時点で既にコントロールを失っている。
昔お師匠と一緒に演奏させて頂いた時もそうだった。あわよくば、「あれ?結構いい勝負じゃない?」という声をついつい期待してしまう、という・・
このあたりを感じられて師匠は「白川は性格が悪い」と仰ったのだろう。多分。
さらに「音楽に勝ち負けはないんだよ。」とも。
最近は年もそれなりにとり、随分と治ってきたかな、と思っていたけれど、こうした大曲を前に、相当勝気な自分とそれによって自滅する自分を自覚することができたのは収穫ではあったけれど、まだまだである。
今年の秋には、やはり私にとっては、尊敬している、ある意味「強い相手」とのアンサンブルのコンサートもあり、それは、修行にもなり嬉しくはあるけれど、ストレスにもなっており、ついつい「負けるのは嫌だぜ」となっていた。
こんなメンタルの混乱がそのままぜ〜〜んぶ、露呈した。
そんな私への先生の対処方法は・・
まず、真剣による祓い。
しかるのちに紐。
これだけでも、相当変化したのだけれど、一番効き目があったのは胸への一撃だった。
私の講座にも参加されているヴァイオリニストの一言がきっかけだった。
「白川先生の一撃の場所というのは何処ですか?」
有難いことである。
これは先生ご自身の「撃たれて死ぬ」という最近の気付きに付随しているものなのだけれど、人によって、何処を撃たれるのがよいかは、違っているとのこと。
私は胸のやや左上部だった。
もともと、ストライクを受けるのは好きで、ロシア武術のシステマの北川さん夫妻に会う時は、必ず御願いしてやってもらっていた。そのあととても清々しいから。痛くないし。
ある意味、今回は甲野先生のストライク。
とはいっても、「さあ、これから撃たれるのだ」という準備もなしに、不意にスっと行われたストライクだった。
だからこそ、不意をつかれた心身に素直に響き渡ったのだと思う。
音のない「喝」。
これは、今後、演奏面だけでなく、私を折に触れ、助けてくれるものになったと思う。
本当に、素晴らしい貴重なものを頂いた思いだ。
あれこれ先のことを考えてしまうからこその人間だけれど、始めると同時に終わっていれば、そんなことを考える暇もない。
そして、撃たれて死んでしまえば、(まあ、実際に死ぬというのではなく、ある意味演技、まさにプレイなのだけれど)やはり、これまた勝ち負けや余計なことを考えることもできない。
ゾーンにはいる、フロウ、などなど、こうした状態を指す言葉はあるけれど、その極限の集中の実感は誰もが簡単に味わえる、というものではないだろう。
でも、この「撃たれて死ぬ」というのは、そこに至る一つの間口を開いてくれるように思える。
本当に邪魔もなのは、自分の動きを阻害しているものは、自分自身の自意識であり思念であることを思い知らされた。
とまあ、本当に酷い演奏ではあったけれど、「いや、やはり流石ですね。」と演奏後控室で仰ってくださったのも嬉しかった。
おっと、これがいけないのだわ。一喜一憂するのが。
私の自我はなかなかしぶとく、死んでくれない。
まだまだである。
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