師・植村泰一先生の下でのレッスン。
6月の講評をうかがう前に、自分から反省点をが〜〜っと述べる。
先生の講評も、概ねそれと同様。
今回、マイブームが首筋のエラだったこともあり、それはそれで、新たな響きのツボが開いたのではあったのですが、肝心の胴体がその分抜けてしまって、こじんまりとした響きになってしまった、というのが、私の一番の反省点。
とはいえ、それ以外では、かつてないくらい、本番でのコントロールが上手くいき、それなりの成果はあったものの、それだけに、この響きに関してが残念だった。
先生も概ね同意見。
アンサンブルに関しては、相当の進歩はあった、と認めてはくださたものの、まだまだ、と多くのご助言をいただいた。ありがたいことです。
最初のお茶の時間が既にレッスンなのだけれど、今回、アメリカで出版されているフルート専門誌に掲載されたニコレの追悼記事を見せてくださった。
その中のクイケンの言葉は先生にとって、そして私、私の生徒さん達にとっても大きな示唆となった。
the innner intensity of his sound
これ程までに適格にニコレの音、響きを言い表した言葉はないかもしれない。
先生は、さらにモデルチェンジを試みられているご様子で、私にも色々と尋ねてくださった。
それは脚、膝に関するものであったけれど私の見解としてはただ伸びている、曲がっている、からどうのこうの、というものではないので、一概に、どちらか、ということは言えない。
特に、既に素晴らしい響きで演奏されている場合は、一見脚がまっすぐであったとしても、それは「緩んでいる脚」なのである。
と同様に、曲げていてもそこで踏ん張って分断を起こしているケースもある訳で・・
見た目の話ではない。
要は、響いていれば、その時の脚は良い脚!
とはいっても、身体を沈めた方が物理的重心が下がるのは確か。
でも、そのために脚を曲げ過ぎて踏ん張りを呼んでしまうと、分断されて、元も子もない。
唯一言えるのは、立った状態から沈むよりは、深く沈んだ状態から立ち上がる方が、脚は緩む、ということなので、そのことはお話した。
でも、あれだけ響いていらっしゃるのに、さらに、それも今の年令で、大きくモデルチェンジしようとされている師匠の情熱に背筋がヒヤっとする。
最新の気付きも教えていただいた。これは喉に関するもので、ここ数か月、喉は私達のマイブームでもある。
そして、演奏。
その後、中庸命門、小指のスイッチなどの影響もあり、私の音も大きく変化した。
モーツァルトのアンダンテ。
響きがなければ、どうしようもない、というシンプルな小品を、敢えて、この日はチョイス。
吹き終わったあと、驚かれたご様子で、
「ああ、大分ね・・」とにこやかな表情。
「あの本番の録音聴いて、猛反省でした。その後かなりモデルチェンジです!」
7月、遊ぶのも遊んだけれど、実は練習もよくやっていた。
先日甲野先生に聴いていただいた後、さらに進化し、より深いところから音が出せるようになっていたのが、そのまま演奏できて良かった。
とはいえ、まだ表情をつける折に、エネルギーまで減衰させてしまい、響きが減ってしまう、という欠点をご指摘いただき、いくつかのご示唆をいただいた後、修正。
その後の演奏は、
「それだったら、こないだの本番の2,3倍響いているよね!」
どんだけ響いてなかったんだ?という話かもしれないけれど、心底驚き納得してくださったご様子、嬉しかった。
「演奏というものは、その時、その時の点で聴くのではなく、その奏者がどのように育ってきたか、その後どのようになっていきそうか、という線で聴くものだ。そういう聴き方を心掛けていると、初めて聞く演奏者であっても、その奏者がどのように吹いてきて、どのようになるか、大体、わかってくるんだよ。そういう意味では・・・白川は・・良い線が描けていると思うよ。」
と、珍しく、手放しでお褒めいただき、怖いくらい。
これは、良い気にならないうちに退散した方がいいか、という気持ち、さらには、今日お教えいただいたいくつかの先生の気付き、そして演奏してくださった、あの音をお手本に出して見たい、との気持ち、つまり、早く練習したい!という想いが募り、
「先生、ありがとうございました!今日はこれでもう充分です!」
と早々に失礼したのでした。
いや、それくらい大きな示唆をいただいた。
それで、本日27日、フルートのみならず、歌まで進歩してしまいました。
先生の気付きなので、書けないけれど、喉の取り扱い方一つで大違いです。
もちろん、それを機能させるための身体の連結、連動あればこそ、ではありますが。
この日、植村先生とは生死の話などをした。ニコレのこともあって。
「死ねるのは人間だけ」
動物は自分が生きているという自覚もなければ、死ぬことへの恐怖もないのかもしれない、という話。
甲野先生とも、山崎弁栄や鈴木大拙の話をしたばかりでもあったので、その偶然にも驚きながらも、芸術とは、この時空を超えた、生死の境界線にあるものかもしれない、という想いも増す。
その境地に達してみたいものだと思う。
過去と未来すら「今」と捉えていた、この大きな知の先達。
演奏は点でなく線で聴く、という師の構えにも通じている。
リルケは「我々は何時、存在したのか」と語る。
「生きる」という実感が希薄だからこそ、いたずらに死を恐れすぎてしまうのかもしれない。
生ききったという実感があれば、もしかしたら死も、より親しいものになってくるのやもしれない。
生と死も、過去、現在、未来がひとつの「今」となる様に、ひとつの様相を表すようになるのかもしれない。
昔は全く理解できなかった芸術家の自死も、少しわかるような気もした。
生きることができなければ死ぬこともできないよね、
というようなことをツラツラと考えた師とのティータイムでした。
永年の悩みだった「何故、音楽か?何故フルートか?」の答えが少し見え始めたような感もある。
そんな悩みは、ちゃんと生ききっていないからこそ、生まれてきたのかもしれない。
巨匠(ニコレ)はしっかりと生ききっていらしたのだ、と。
ログインしてコメントを確認・投稿する