先日の砂原悟さんによるクラヴィコードコンサートでの体験は、今まで味わったことのないものでした。
特に、『植物文様』でのあの空気の流動感、響きの濃厚さ、は直接、全身の細胞に働きかけてくるようでした。
もし会話をすれば、その声に隠れて聴こえなくなってしまうほどの音量のクラヴィコードなのに、本当に不思議でした。
小さな音のクラヴィコードが持つ、大きな力。
もちろん、どんなクラヴィコードでもこうした感覚がもたらされる訳ではなく、会場、聴き手、奏者、作品が調和すればこそです。
そして、響きをもたらすために不可欠な調律。
今回は、敢えてウルフ(雑音)とのコントラストも楽しみたい、と砂原さんがセレクトされたのは、夢見るくらいに3度が美しく溶け合うミーントーン調律。
この純正調による音律があればこそ、ということを再認識しました。
コンサート後のパーティーでお話した折、この『植物文様』の作曲者である藤枝守先生が、「平均律からの脱却」を唱えて活動されていることを知り、お話にとても共感、感銘を受けました。
帰宅後は、早速に著作『響きの考古学』を取り寄せ、読みました。
甲野善紀先生と出あったのは2003年の春でしたが、それ以来の衝撃といってもいいかも・・
フルートは鍵盤楽器に比べれば、音程の上下は自由が効きますし、アンサンブルの時には、長3和音を純正調の音程でとらなければ、響かない、というのはいわばアンサンブルの初歩のお作法の範疇なので、やってはいたものの、まだまだ、自分の耳は藤枝先生仰るところの、「平均律の牢獄」の中だった、ということを実感。
それから、色々とネット検索し、夜な夜な様々な音律の音の聴けるサイトに聴き入る日々。
もともとが、「絶対音感」ならぬ、「大体音感」のアバウト耳ではあるのですが、それでも、かなりの変化がありました。
フェルーの第二楽章のペンタトニックなんて、完全に、平均律耳で吹いて居た・・
・・・だから、今一、つかみきれない焦燥感というか、つまんなかったんだ・・
というのも、今頃わかる・・・
第一楽章にしても、冒頭はオリンポスのペンタトニックと考えて、狭い半音と考えてESを今までよりも暗くすると、別世界に・・
第三楽章は、平和への呪文と戦い勢力のモチーフの対比というかせめぎ合いでもあるのですが、呪文は純正調、戦いは敢えて平均律で、とやると、際立つ対比。
・・おもしろすぎる・・
というか、なんて耳が悪かったのか・・と猛反省です。
でも、それは、まだ耳だけ、つまり脳で調整しているだけにすぎない。
まだまだ、インチキだと思う。
そうではなくて、実際に、自然本来の音律を自分で作りだし、身体で感じる体験をしたい、と熱望。
この本に紹介されていた「モノコード・ワークショップ」をぜひ体験したい・・
このモノコードが欲しい・・
との思いが募っています。
そんな思いを藤枝先生にお伝えしたところ、なんと人数が揃えばワークショップを開催してくださることに。
モノコードは通常は1本の弦なのですが、藤枝先生考案のものは、6本の弦の「ハーモニック・モノコード」。
複数の弦にすることで、それぞれがピタっと合った時の響きの共振を味わうことができるもの。
材料を揃えて作ることも可能だけれど、最低でも4時間かかり、レクチャーも4時間くらいかかる、とのこと。
作業工程には「電気ドリル」という言葉もあり、それだけで手に穴をあけてしまうイメージがわき、びびってしまうくらいに工作は苦手。
できれば、完成品を?と御願いしたところ、それも考慮してくださる、とのことです。
開催時期、費用はこれからですが、なかなかできない稀有な体験ができるかと思います。
関心のある方、事前にお知らせしますので、どうぞご連絡ください。
今まで「楽器と演奏者の身体の共振・響き」ということが自分にとっての一番の関心事で、まだ道半ばとはいえども、過去に比べたら、信じられないくらいの成果があがっています。
なので、傲慢になっていた自分が居たことにも気が付かされた。
・・・響いているんだから、いいじゃない・・
みたいな。
でも平均律はそもそもが人間が「便利なように」と考え出した、不自然な音律で、響かない。
なのに、私達は、もう生まれた時から平均律の音の洪水の中で生きている。
私のように幼少時からピアノを習っていたりすると尚更。
楽譜を見て歌える能力、ソルフェージュにしても、その音を合わせるのは平均律のピアノだった・・
と本当に、体質改善的なことをやらないと、この先には進めない、という思いです。
甲野先生同様に、藤枝先生もまた、「人間にとっての自然とは何か」を真摯に追及されているお一人なのだろう、と思います。
(以下引用)
現代では、音の高さや音程は、演奏の都合や音楽の種類に応じてある程度、自由に変えられ
る。
このような音に対する自由な扱いは、言い換えると、音が持つ秩序に対して配慮が欠如していることを意味している。
音の中にある力は、その音が自由に扱えると思っているときに消滅する。
音という存在は、古代人が畏怖した自然や宇宙と照合したとき、はじめてその力が現れてくる。
『響きの考古学/藤枝守』
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