先週に引き続き、炎天下の中たまプラーザへ。
バーゲンの真っ最中ではありますが、実はもう、かなり色々と買いこんでしまっているので、流石に、まあ、もういいかな、という気分です。
今回はさしたる気付きもないけれど、まあ、フルートにおける息の取り扱い、というか手放し方、ピアノでの左腕での検証かな、と思っていました。
でも、本日の参加者は、フルートのAさんお一人。先週に続いて、茨城県からのご参加です。
ならば、ということでAさんのご希望もありフルートのレッスンとなりました。
今までも、この講座の中でのビフォーアフターだけでも、相当に変化されてはいたのですが、改めてじっくりと観察させていただくと、色々、過去に培ってしまって「普通」になっている問題点が浮上。
それらの問題と、予想される原因、修正の仕方などをご助言しました。
たった90分で、かなり変化されました。というか、変化への対応力が素晴らしい。
最新の気付き、バッハタッチでのフルート奏法まで、できるように。
でも、人の身体というのは、本当に個々に違う。
なので、無責任なようですが、
「最終的にはご自身の奏法はご自身でみつけるしかないんですよ。」
である。
私にとって上手くいった(とりあえずではあるけれど)やり方が、そのまま有効とは限らない。
植村先生も良く仰る。
「レッスンっていうのはね、教える方も大変だけど、教わる方も、なかなか難しいものがあるよね。だから僕はよく、先生に騙されるな、って言うの。」
どんな文化文明も、マニエリスムが登場してくると、その後すぐに衰退する。
ミケランジェロの彫刻が真似され、似て非なる彫刻群があふれたように。
まあ、マニエリスム、推進したのはミケランジェロ本人ではあるけれど。
そういえば、ミケランジェロの人物の造詣も、螺旋であり、火焔のようでもある。この天才には人体に存在する螺旋的エネルギーが見えていたのかもしれない。
見えた螺旋のエネルギーを表現するのは目的。螺旋の構図は手段。
それが、まず螺旋の構図ありきになった。
目的と手段が音も立てずにソロっと入れ替わる。
マニエリスム。マニエラ(手法)。そしてマニュアルである。
奏法、マニュアル、メソードというものは、つまりレッスンにおける師の言葉も、師にとっては真実、(それもその時々の)であるけれど、それを真似たからといって、全てが上手く行く訳ではない。
真似られたとしても、それは、似せたもの、つまりニセモノである。
あくまでも、参考にし、何かしら、自分でみつけるための、縁、きっかけにするためのものである。
そして言葉以上の何かしらの感覚、暗黙知の受け渡しこそがこうしたレッスンの醍醐味なのだと思う。
「そうそう。あとは、手段と目的を取り違えないようにしてくださいね。」
「?」とAさん。
「つまり、親指の付け根が痛くならないようにする。楽器に触れている親指が赤くならないようにする。というのが目的。そのために指の形をどうするか、楽器をどう構えるか、というのは手段です。そうならないための工夫は自分で探す。今日お教えした私の状態は、あくまでも私にとってよいもので、参考にすぎませんよ。違うことを試みることも忘れないように。」
つまり、人の表面の形だけなぞってマネするな、である。
こうして改めて考えてみると、だからバッハは自身ではクラヴィーア教本を書かなかったのかもしれないな、とふと思う。
書けないはずはないのに、書いていないのだから。
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