初参加のジャズピアノを学んでいる方を加え、常連さんでにぎわった今回。
メインは「肉球アラカルト」
いやはや、これだけで、もういいじゃないか?と思える効果でした。
ただ、ここで問題なのは、内観的、つまり意識を操作する手の内、方便なだけに、「さあやるぞ」といった意欲や緊張があると効果は半減。
あ、そうか!だからか?
とここ数日の意欲ややる気の無さの原因は、この身体の使い方にもあるのかな、と思案。
新な収穫、というか感覚も。
チェロの方のレッスンをしていて突然閃いたのは遠近法の焦点の話し。
画面の中に焦点を結ぶのではなく、画面の外に焦点を結ぶような構図に。
細かい調整は、小さなつまみよりも、大きなつまみの方がやりやすい。
これもまた「「内観的回り道」の方便です。もちろん動きはプニプニの様々な肉球で。
・・・・・・・・・・・・
モーツァルトのアンダンテが次回のレッスン課題なのですが、ここ数週間、あんなに大好きだったこの曲がすっかり嫌になってしまいました。
いや、厳密に言うならば、自分の吹くアンダンテが嫌になった、というべきでしょう。
散りばめられた、効果的な様々な機能をもたされた非和声音達、レトリックとしての効果をあげている休符の感動。
ついこのあいだまで、アポジャーレした音が解決する喜び、様々な驚きに満ちていたのに。
今はそれが、とても自分で吹いていて、わざとらしく感じられ、胸が苦しくなって、すぐに止めてしまっています。
本当は極悪人なのに、周囲に良い人と思わせるために、手練手管を操出し、緻密に計算し行動している・・・みたいな。周囲は騙せても、自分は騙せない。
全部、とっぱらってしまってシンプルなスケールとアルペジオだけにして吹くと、まだなんとか吹けるし、むしろスルっと心に入ってくる。
昔は、「ほら、これだけじゃ、つまらないでしょう?だから、これらの非和声音が生きてくるのですね。」なんてまことしやかに説明していたのに、今はそれらの企みがとてもつらい。
今の自分では、企みとしか思えないのに、それを自然の摂理、美しさとして表現、構築することが出来ない。
「アナリーゼの森に迷い込まないように」(@ニコレ)という言葉はもしかしたら、こうしたことへの警句でもあったのか。
アフターのひととき、ワインを傾けつつそんな話を。
すると、ご遠方から参加されている私よりも若干年長の常連のフルートのAさんが、良いことを仰った。
「先生、それ、もしかしたら、身体の急激な進展に心が追い付いていないからじゃないですか?」
ハタと膝を打ちましたね。
そうか。四肢も首も胴体も、みな肉球モードでどんどんと透明度を増しているのに、心やお腹の中は、まだまだ、どす黒い滞りが渦巻いているんだわ・・
全部が薄汚れていれば、シミもさほど気にならない。
でも、他が澄んでくれば、余計にそのシミの黒さが存在感を増してくる。
ログインしてコメントを確認・投稿する