あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
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今年のお正月は慌ただしかった。
元旦は家族3人の初詣出。夫と私は恒例の着物。息子はラッパースタイル。
2日には高松で、高松高校卒業40周年の同窓会があり参加しました。
同期バンドWAYAZも、高松の52バンドと同じくパーティーで演奏させてもらえることになっていて、メンバー一同張りきって練習しておりましたが、やはりぶっつけ本番は怖いということで、当日の午前中、現地のライブハウスをお借りして練習することとなりました。
ということで、朝4時に起き、始発の電車に乗り、早い飛行機で高松入り。無事10:00の練習に間に合いました。
マイケルという可愛いパグとセクシーなママが居るライブハウス「レトロ」さんには、とてもお世話になりました。
ありがとうございました!
練習をみんなよりも少し早く切り上げて、今度はパーティー会場でのリハに駆けつける。
オープニングのフルート演奏、さらには仲良し男子3人が当時の想い出を語り歌う時にも吹いて、ということでコラボ。司会は仲良しの友人、Pさん。
Pさんの仕切りはピカ一で、リハも滞りなく終了。あっという間に開催時刻となりました。
太ももにも紐を巻いたのですが、うっかりストッキングを忘れ素足だったので、滑り落ちてしまい、本番でのヒモはお腹だけ。
パーティーなので止むを得ず、久々のハイヒールの演奏でしたが、ヒモに随分と助けてもらえたかも。
校歌を基にアレンジした、トッカータ風の前奏を持つ小品、喜んでいただけて良かったです。
かつてないくらい深い音が出るようになったのは、昨年末の師匠の教え「補う」のお蔭。
それを可能にしてくれるのはヒモ、そして「内腕」。
にしても、根本的自信はあったものの、かなり緊張した。
高松の同期を中心に、一年以上かけて準備してきたこの会の冒頭で、コケる訳にはいかないよね、というプレッシャーはかなりのもので、15分前からスタンバイして集中しておりました。
その後のWAYAZの演奏もとても好評。WAYAZもおそらく、過去最高の演奏をしたのではないかしら?WAYAZの進化が感じられたのも、嬉しいことでした。
40年ぶりに会う同期も沢山でしたが、みんな基本、変わっていない。
話しているうちに、お互い制服姿が浮かんでくる。
2次会3次回、4次会と会を重ねましたが、2時にはホテルに戻りました。
本当に楽しかった。良い仲間に恵まれて幸せです。
高松の同期のみんな、本当にありがとうございました!
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会場には恩師もいらしていて、その中に、数学のS先生のお姿も。
おそるおそる、声をおかけしました。
というのも、私の数学の点というのは、本当に酷いものだったので・・
その上、このS先生は亡き父の同級生。高高の前身、高松中学最後の卒業生です。
当時は私のあまりの成績の悪さを心配されたS先生が、父に「おまえの娘やのに、どうしたんや?」と話されて、驚いた父が、すぐに、家に数学の家庭教師を呼んで特訓・・といういきさつもあったっけ・・
もちろん、成績は全くのびませんでしたが、まあそのお蔭で「これだけやっても出来ないんだから勉強は向いとらんのかも」と音大に行かせてもらえることになったので、ある意味、数学が出来なかったのも、私の運命。
そっか、こうしてフルートを吹けているのも、S先生のお蔭でもあるかも?
ということで、敷居は高かったのですが、思いきってお話したところ、
「え?さっきのフルートの人やろ?白川、いうから、あれ?とは思ったんやけど、しらけん(白川健蔵)の娘さんやったんか?嬉しいのう。今度みんなに言わんといかんわ。今でも同期のみんなで集まって、うちはお寺やから、しらけんにはお経をあげているんや。」
との嬉しいお言葉。さらには
「しらけんは、本当にクラスの中心で、勉強もようできよったんや。決して、自分からひっぱっていく、という感じのリーダーシップというのではのうて、なんとなく、あいつがなんか言うと、みんながついていく、という、本当に凄いやつやった。若くしてなくなってしまって、本当に惜しい、と今でもみんなで言いよるんや。」
さらに続けて
「あいつの編集能力というのは凄かったんやで。
今、新聞いうんは、どこのもんでも、TVの番組欄が一番後ろにあるやろ?
あれを最初にやったんは、しらけんや。
『これからは、みんながテレビを観る時代や。それやったら、すぐに見られる一番後ろに番組欄があるのがええ』
言うて、四国新聞が一番最初に変えた。
すると、それがええ、ということになって、他の大手の新聞社も、みんな四国新聞を真似して、みんなTV蘭が後ろになった。」
「え?元からではなかったのですか?」
「うん。当時はどの新聞もTV蘭は真ん中あたりやった。それを最初に変えたんは、しらけんなんや。」
この話は初めて聞きました。
父が亡くなって早40年余。
私が知らなかった、ということは、おそらく母も知らなかったのではないか、と思います。
知っていたら、きっと話してくれていたはず。
東大を落ちて早稲田に、朝日新聞を落ちて四国新聞に、と挫折ばかりだった父ですが、政治家の選挙参謀役としてだけでなく、新聞業でもこうした成果を挙げていた、ということがとても嬉しかったです。
40代半ばを待たずに急逝してしまった父。
「もし、しらけんが生きておったら、どんなことをしたんやろう?といつもみんなで言いよるんやで。ほんまに残念やった。」
というS先生の言葉がとても嬉しかったです。
帰宅して改めて新聞を見ながら、夫と息子に、早速この話をしたのでした。
あ、そうだ!弟にも教えてやんないと・・
パっとひっくり返して新聞の番組蘭をご覧になる時、「白川健蔵」という市井の地方紙の新聞記者が居たことを想い出していただけると嬉しいです。
パパ、カッコイイじゃん!とお仏壇に手を合わせてきました。
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写真は早朝の飛行機から見えた元旦の朝日。
今年も良い年となりますように!
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