マリンバと三味線の常連のお二人。
お二人とも、かなり、肩の位置も下がり、以前よりもずっと深みのある響きになっていらっしゃいました。
冒頭に、最近、自分が感じている「自力と他力」に関してのお話を。
このお話だけで、変化される、というのも凄いお二人でした。
自力の代表格のような真言密教。
厳しく辛い修行に耐え抜いて、自己を鍛え、異なるステージへと導く。
他力は、浄土宗や浄土真宗。
ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱え、阿弥陀様に全てをゆだねる。
あの空海さんですら、そのご母堂に「ただ南無阿弥陀仏と唱えるのがよいでしょう」と書き送ったと云われている程の厳しい修行。
自力での変革というものは、そうそうたやすいものではないのでしょう。
なんといっても、それらを意識し、あれこれ変えているのは、「今のレベルの自分」に他ならないのだから。
もちろん、私にしたところで、どちらが良い、という判断をしたい訳ではなく、それくらい違うし、大変だし、変わったつもりでも、同じお皿の中、ということもしばしば、ということです。
では、他力とは?
やはり、紐?
何故かわからないまま、今の自分の脳がそれを感知する間もなく、勝手に変わる身体と心。
紐はホイっと今の自分を次のステージに連れていってくれるツールだと感じています。
毎日ではないけれど、練習の折に紐を使うことで、確実に身体が変化しているのは鈍い私でもわかるほど。
紐の効果を邪魔するのは「自力信仰」に他ならない。
紐に任せる、というのは、もしかしたら、一番難しいことなのかもしれません。
思うに、バッハの音楽をもたらしているプロテスタントは、この他力の浄土宗や浄土真宗ととても似ている。
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ということで、紐以外の私の提言というのは、全て「今の自分のレベル」という非常に低い程度のものではあるのですが、それでも、何かしら役に立っていることもある。
今回の一番の提案は、足。
まさに足元の話。
ここが変われば、全て変わる。
なんてことは10年前から散々言ってきたのですが、当時はまだよくわかっていなかった。
この足元とハンドクリームを組み合わせた後の正座による音は、どれも素晴らしいものでした。
正座が浮いて居る・
面白いのは、足指の感覚。
尾頭付きの鯛のお刺身や、塩焼きの様に、上に向かってはねあがっている尾びれみたい。
これが下がると急にどんよりして地に落ちる普段の正座。
こんな妙な状態の方が心地よい、と感じられるのですから、身体というのは本当に面白いです。
下駄にしても靴にしても、本来の機能と使い方というのは、すっかり失われているのを改めて感じた次第です。
足を変えるだけで、荷物(楽器)は軽く成り、脚のみならず、上半身の使い勝手も格段に良く成る、というのに。
鎌倉武士が足半を履いて戦ったのも、至極当然のことだったのでしょう。
と、今はとてもよくわかる。
昔は、この上半身の変化にまでは、私の身体は敏感ではなかった。
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