私が子供だった頃から始まった漫画。
甲野先生ともご縁があり、「見えない力」という御本でも対談されている美内すずえの作品です。
日頃は冴えない少女が、いざ舞台に立つ時には、ガラスの仮面をかぶり、素晴らしいパフォーマンスをするというもの。
現在は中断中か?
音大時代、いや、甲野先生と出会うまで(つまり44歳!)までの私はとてもあがり症で、本番で遠目からわかるくらい脚や指が震えてしまったり、アンブシュアが決まらず音が出なくなったり、というのは日常茶飯事でした。
たまたま上手くいった、といっても、それは緊張した状態をムリヤリ押さえつけ、ねじふせて、という非常にストレスフルな稚拙な対応での間に合わせ。
震えないからといって、その演奏が良いか、というとそんなことは全然なくて。
本当に、よくこんな状態で、仕事してこられたものだと思う。
なんで、こんなにヘタなんだ?と悩む日々。
これは、相変わらずであるけれど・・
当時、この「ガラスの仮面をつける」というのを真似してみたことがありました。
つまり、言い聞かせる訳ですね。自分に。
でも、全く効果はなかった。
その理由は現在はとてもよくわかる。
身体の状態がねじれ、固め踏ん張っているので、自分で緊張のスイッチを入れているようなものだったのです。
なので、どんなにお題目を唱えったって、焼け石に水。
ブレーキを踏んだままでアクセルふかしているようなものだから。
なので、こうした身体の滞りを少しでも減らしてきたからこそ、の効果かと思うけれど、現在、この「ガラスの仮面」の効用を改めて感じています。
演技も演奏も、それは日常から非日常へと変わることが不可欠、というのを身に染みている。
そのためのスイッチとなるのが「ガラスの仮面」
これは別に「ガラスの仮面」でなくてもよくて、「さ、変わろう」でも「よし」でも良いと思う。
とりあえず、何かしらのスイッチを作る。
日常と非日常の境界線を越えるためのきっかけ、ツールを自分なりに持つ。
その結果、何が一番変化するかというと、それは「息」。
もっと言うならば、この息の状態を変えることが日常から非日常へ渡る最も有効な手段ではないか、とも思う。
緊張するのはいけないから「落ち着こう」というのは第一段階では正しいし、必要なことだけれど、落ち着いたままでは、日常の延長に過ぎない。
非日常の舞台であり音楽なのに、日常のままの心身で対応しようとするから破綻するし、そうはならないまでも、感動からは程遠いパフォーマンスしか出来ないのではないかと思う。
落ち着いたら、その次は、非日常へと、境界線の川を渡るのだ。
演者だけでなく、観客をも巻き込んで。
古代ギリシャや日本の能、様々な国それぞれに存在する仮面劇などの芸能は、仮面を介することにより、その境界線の渡り方をずっと伝えて来たものなのだろう。
・・・・・
演奏時の身体のポジションを整え、ふんばらないようにしておけば、心、考え方によって、身体は大きく変化することができるのを最近改めて感じています。
そうでなくても、心の作用は大きい。
旅行など、興味関心、目的があり、心底集中して歩いている時は全く疲れない。
でも、休暇が終わって、会社に向かう途中、とたんに膝が痛くなったりすることもある。
夫のことです。
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