バッハ・タッチによる、指、舌、脚によるモデルチェンジに比べれば、末梢的なことかもしれませんが、もしかしたら、実は、とても大事なことかも、と思い至ることがあったので、メモ。
栗の渋皮を剥く時に、甲野先生のことを思い出し、やってみた手の内があります。
漢字が出てこないのですが、「ひょうけん」。
これは、歴代の先生が見つけられた手の内の中では、最も私にはしっくりときた、お気に入りです。
では、何故、お気に入りか?
この「ひょうけん」は、親指に集まりがちな力みを分散してくれる効果がありました。
中指を通すことで、親指の力みは減り、小指のアソビも取れ、繋がる。
5本の指のバランスが一気に整う。
「鷹取」が、当初、バッハ・タッチに繋がる、と思っていましたが、この「ひょうけん」も効果大。
両方、行ってから、楽器に向かっています。
これによって、最も変化したのは右手親指の場所と形状です。
今までは、なんやかんやいっても、癖で、その必要もないのに、まだ親指側面にフルートを乗せていました。
それが、今は、軽く指先が当たる程度に。とはいっても、まだ意識的に行わないと、まだまだ昔の癖で、側面に乗せてしまいそうになる。あと3日くらいで治るか?
昔の鍵盤楽器の白鍵が何故短く、親指を潜らせる運指よりも、3434など、二本を交叉する方がバッハ以前は多かったのか、の理由も、今のフルートの持ち方になると、「なるほど!」と思えます。
親指を潜らせるのは、確かに便利ですが、潜らせる瞬間に、いや〜〜〜な感じが親指付け根付近に生まれて、それが手首に広がる。
親指は、他の4本から離れすぎてもこわばるし、他の指の動きを阻害しますが、同様に隣の、つまり2の指以上の3,4、を潜る時も同様、もしくはそれ以上に、手をこわばらせる。
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縁あって、というか、探し求めて、出あった楽器商のNさんのご厚意により、クラヴィコードを少しばかり弾くことができました。ありがとうございました!
クラヴィコードであのフリーデマン・バッハの音楽帳の「アプリカーツィオ」を弾くのは私の夢でした。
ついに叶って、感激。でも、とても難しかった。
でも、「初めてなのに、よく音が出ていますね!」とNさん。
「あ、研究しましたし、それに、私はピアニストではないですから。」
つまり、通常の指を振り上げるピアノ対応のタッチでは、カチャっという嫌な音しかしないのです。
さりとて、ただ弱いだけでは、もちろん鳴りません。
「あなたはどうしたいのか?」
という問いかけなしにはまっとうな音が出ないところが、クラヴィコードの最も優れた資質ではないか、と改めて感じました。
まだまだ自分のロットへの、この問いかけは、お題目で、結局は従わせていたなあ、と猛反省。
実際、クラヴィコードを弾いた後で、フルートを吹くと、今までとは全く違っていて、より楽器の声を聴こうとするようになっていました。
指先の、タッチの感覚の違いが、身体全体を変える。
フォルケルも、エマニエル・バッハも、テュルクも、つまり古の巨匠達は口をそろえて
「まずは、良いクラヴィコードを持つように」
と言っています。
「クラヴィコードを制するものは全ての鍵盤楽器を制す」ということだと思います。
でも、鍵盤楽器でなくても、フルートでも、そのご利益は大きなものでした。
「あなたはどうしたいのか?」
これは、バッハ・タッチの基本術理でもある。
「手は、本来、どうしたいのか?」
「舌は、本来、どうしたいのか?」
「脚は、本来、どうしたいのか?」
まだまだ、沢山の問いかけが、この先も生まれてくるのだろう、と思います。
こうした「他者に問う」という構え、姿勢をクラヴィコードは教えてくれる。
この問いかけの構えこそが、音楽する大前提としての身体を整えてくれるのではないかと感じました。
クラヴィコードは音楽の大切な秘密を小さく小さく囁いてくれる。
楽器演奏は道具の制約を受けるのは、ある程度、仕方ないにしても、だからこそ、身体の扱い方は、本来、生まれながらに身に備わっている「自然」に従うものでありたい、と改めて思いました。
ああ!自分の体なのに、こうして改めて問いかけてみなければ、わからなくなってしまっているなんて!
ということも、クラヴィコードが気付かせてくれます。
昔はフリューゲル(チェンバロ)に比べたら庶民の楽器であった、クラヴィコードも、今ではすっかり本場ドイツでも人気は凋落し、忘れ去られています。数が少ないので、製作者も少なく、その価格は、まあかなりなもの。とはいっても、グランドピアノよりはずっと安い。
これだけ、「バッハ」「バッハ」と猫も杓子もバッハのことを語っているにも関わらず、クラヴィコードのことが、ここまで忘れ去られている、というのも不思議なことです。
やはり、あまりに音が小さく、本番で使えない、からだそう。でもそれだけの理由で、こんなに、それこそ、「絶滅危惧種」になってしまったのは、あまりにもったいないというか、音楽文化として、人として情けない。
ピアノは、こんなに津々浦々行き渡っているのに。
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