昨日騒いで若干飲み過ぎたせいで、11:30に夫に起こされるまで眠っていました。
私がこうやって、年齢の割に元気なのは、こうやって、用事がない限りは、朝、寝かしてくれる理解ある家族のお蔭かも。
講座の頃にはすっかり回復。
今回は、フルートのAさん、オペラ歌手のTさん。
メインテーマは肩甲骨。
先日のコンサート本番当日に身体が気が付いた動きと、それをもたらすための前提条件。
腕の重さもテーマ。
ただ脱力して下げているだけでは、実は、腕って重いんじゃないの?の検証。
指先一つで、腕の重さも、そして身体全体もザザっと変化する、なんてことは、私も甲野先生との交流がなければ「何言ってんの?」と過ごしてしまっていたと思う。
ピアノを使っての様々なビフォーアフターもじっくりと検証できました。
そして最後の最後に、降りてきた。
「ああ、そういえば、エマニエル・バッハが書いてましたね〜〜」
と最近、読み返しているエマニエル・バッハの歴史的、18世紀のクラヴィーア教本、『正しいクラヴィーア奏法』の一節が急に思いだされる。
原書にあたった訳ではないのだけれど、東川清一先生の日本語訳は素晴らしく、とてもわかりやすいし、労作だと思う。
その中で「指は曲げて」とある。
これを5本の指を全部、と解釈すると、所謂、私達に最も馴染みのある「卵を包む形」で指をしっかり挙げて、という所謂『ハイフィンガー奏法』となる。
でも、ドイツ語では、親指はDaumen。 親指以外の指はFinger。
明確に区別されている。私はこの文章を「親指以外の指は曲げて」つまり、親指は伸ばして、と解釈した。
さらにエマニエル・バッハは記している。
「親指は本来なら、できるだけ手の近くに置かねばならないのに〜」
この一文が示唆するところも大きい。
ということで、エマニエル・バッハが提唱しているところの、云わば「ピアノの手の内」を実践。
特に真ん中3本の指を以前よりも軽く曲げるようにしたところ、より身体の芯の軸が通り、音色が高貴な感じに。
「なんなんでしょうね!?」と参加されたお二人と共に、私もびっくり。
もちろん、これらの解釈も、天才エマニエル・バッハに比べれば、かなりの隔たりのある私レベルでの意訳かもしれず、決して「こうだ!」というものではないけれど、この低レベルの意訳であってさえ、これ程までの違いと効果がある。
古の伝書の重要性を再認識です。
でも、クヴァンツのことは嫌いだったのかもなあ、エマニエル・バッハは・・
とこんなことが読み取れるのも、楽しみのひとつです。
夫々の楽器・声楽の専門家による、こうした様々な歴史的文献の解釈がより進むと、音楽の世界ももっと変わってくるのではないか、ともフト思う。
お茶の時間は、こうした奏法論に花が咲く。
結論は言うまでもない。
「〜奏法」に拘りを持ちすぎて、排他的になるのは、芸術家として如何なものか、というものである。
奏法は、あくまでも、芸術を極めていくための手段。その手段が目的化してしまって、そこにがんじがらめになるのは、本当にもったいなさすぎる。
その滞りは奏法ウンヌン以前に、心を曇らせる。
なんで、経験もしていない、やったこともない他の流派を非難できるのか?
ネットで様々な「〜〜奏法」を検索すると出てくる他流派への批判や攻撃を読むにつけ、戸惑いを覚える。
ということで一応私の講座も『古武術奏法』とはしているけれど、決してメソードでもないし、増してや、グレードも、資格もない。
身体がどんどんと気付くことを、その都度、「まあ、今はこんな感じでやってますけど」とご報告しているだけの、そして参加者の皆様に同様のことを体験していただき、夫々の専門に持ち帰って頂いているだけのものである。
「こうしましょう」ではなく、あくまでも、その時々の「ご参考までに」である。
世間一般の身体操法系の「まず基本ありき」の家元制度的組織とは全く異なる、というか正反対だ。
このあたりの誤解を避けるためにも、「奏法」という文字を外した何かを考えられるといいなあと改めて思いました。でも、まあ、なかなか難しいから当面はこのままかもしれないけれど。
「古武術奏法、これしかない、他はダメ」では決してない。
ただ、楽器演奏を通じて「本当のことは何?」と模索しているだけなのだから。
そんな中、エマニエル・バッハの一文に震えた。
私が憧れている理想を、既に300年前に記していた。
指使いを演奏と置き換えれば、全ての音楽家にとっての理想となる文ではないだろうか。
『以上で自然に根ざした規則を全部述べたことになるので、今度はいよいよ運指法の教則自体に進むことになる。しかしこの教則を展開するにも、私は自然を基礎とすることになろう。なぜなら、不必要な強制なり緊張をともなわない指使いこそ、最良の指使いだからである。』
『自然を基礎とする』
これだ!と思った。
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