台風一過の、汗ばむくらいのお天気となりました。
念のために、と羽織ってきたコートが邪魔・・
本日は師匠・植村泰一先生の下でのレッスンでした。
色々な笛吹仲間たちから、このあいだの本番の評判が届いている模様で、本番は聞いてはくださっていないのに、いきなりお褒めいただいた。
それも、先生の先生のニコレの
「音楽とはコミュニケーションである」
という言葉の実践が、よく出来ていたコンサートだった、ということで。
1978年、ニコレが来日した折のプログラム(私も持っています!)を出してきてくださって、わざわざ植村先生が訳された、そのニコレの言葉の個所を見せてくださった。
ただフルートを上手く吹く、というのではなく、「音楽でのコミュニケーション」こそが最も大切なことであり、それを伝えるために、それを言うために、わざわざ極東の島にやってきたのだ、とニコレは語っていらしたのだそう。
作曲家・作品と演奏者、演奏者同志、演奏者と客席、さらにいえば、それぞれの楽器と奏者、会場と奏者、全てのコミュニケーション。
尊敬している信頼できる名手との共演ということももちろん大きい要素ではあったけれど、今回、裏方で、素晴らしい才能を発揮して立ち位置やピアノの位置決めをしてくださった、これまた音大時代の同期のIくん、そして砂原さんや師匠の信頼篤い、調律師のKさんのお力も大きい。
トークコンサーは邪道という意識が今まではあったけれど、せっかく人間的にも個性的で魅力的な蠣崎さん・砂原さんの笑顔を舞台でご紹介できると、日頃クラッシックに馴染みのないお客さまでも、もっと楽曲にも親しみがわくのではないか、という考えもあってのお話付きとした。
笑顔とトークはよくっても演奏が今一残念、というのは一番かっこ悪いので、それもあって、自分の時だけでは、とても怖くてやれなかったけれど、あのお二人なら、上質な演奏とのギャップもあって、それも魅力になるだろうと踏んでいた。
結局、シャイな砂原さんは間際に「・・やっぱり話すのは嫌・・・」と言い出し、代わりに私がそのことを会場に伝え、笑いが起きたりしたのも、楽しいハプニングだったし、蠣崎さんが、あんなに舞台で話す人とは思わなかった・・その上、会場からは、何度も笑いが起きる。
演奏だけじゃなくてトークまで上手いって、ちょっとズルイ。
でも舞台でも落ち着いた自然体の手練れである彼らのお蔭で、私もいつもより「普通」でいられた本番でもありました。
改めて思うに、舞台であんなに笑う、ということは普通はない。
でも、もちろん笛吹仲間も、師匠もそんなところを褒めてくださったのではなく、むしろ、そうした中でのアンサンブル力の高さ、コミュニケーションを評してくださっていたのであった。
今後は、トークなしでも、笑うことはなくとも、こうしたコミュニケーションを音楽の力だけでも、できるようになっていきたい。
8月の師匠のリサイタルの様な・・
・・・・・・・
11月4日の東慶寺コンサートで吹くドビュッシーのシリンクスをみていただいた。
といっても、半分以上は、持参した資料や、先生が集められた資料を前に、色々とお話していたのだけれど・・
以前、叱られたことを肝に銘じて、今回は、メトロノームもびっくりの正確さ?で演奏できた!と思ったら、
「正確すぎて、つまんない〜〜」
え〜〜!?だって前は〜〜〜
「もちろん、それはまず通過しなきゃいけないんだけど、そしたら今度は・・」
と、レッスンが始まったのでした。
やっと「シリンクス」のレッスンに辿り着けた、ということなのかもしれません。
素晴らしいお話をうかがえた。
モイーズから聞いたというエピソード。
モイーズは実際にドビュッシーの前でこのシリンクスを吹く機会があったのだそうです。
ドビュッシーはすぐ目の前に腰を掛け、両手をステッキ上部に置き、さらにその上に顎を乗せ、とある個所にくるとぐ〜っと首をのばして顎を持ち上げ、また戻すことを3回繰り返していたのだそう。
こんなお話をうかがってしまうと、あの独特のドビュッシーのsubit Pの表現、もちろん、とてもファンタジーは湧くし、参考にもなるけれど、むしろ、より悩んでしまいます。
本当に、難しいけれど、素晴らしい作品です。
今、一番知りたいのは、そもそもどんな戯曲であったのか?ということです。
私の知る限りでは、全幕の日本語訳はないと思う。
そもそもムーレイの戯曲のタイトルは「プシュケ」であって「シリンクス」ではないのだからややこしい。
プシュケはエロスの恋人であって、エロスの母のアプロディテにいじめられて苦労するけれど、最後は認められてハッピーエンド、みたいなのが元々の神話だったと思うけれど、何故ここに、パンのお話が挿入されているのか?
というのが一番の謎。
アプロディテとパンとは関わり合いがない訳でもなく、コリアスの岬には二人の神域が並んであった、ということだし、一緒にお手玉遊びをしている線画の描かれた銅鏡もある。
ギリシャの神々の中で、唯一、死んでしまう神であるパン。
このパンの死がどのようにかかわってくるのか?
そもそもパンはこの戯曲の中のどこで死ぬのか?死なないのか?
歓びの中で息絶える、というのは誰のことを指したト書きなのか?
ずっとパンのことだと思っていたけれど、どうもそうでもないらしい。
水の精?森の精?
そもそも、この第3幕の逸話は、どのように本筋に関わっているのか?
その上、パンはここでは、めちゃくちゃモテモテのある意味セクシーなイケメン扱いである。
笛の音にうっとりしたニンフ二人の会話は中々きわどい。
とにかく肝心要のことを未だ知らないままなのが、毎回隔靴掻痒・・
誰か、この戯曲の上演、とかやってくださらないものでしょうか?
ガブリエル・ムーレイの研究者っているのだろうか?
このあたり、やはりフランス語ができないとアクセスできない情報かもしれません・・とほほ・・
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