私が時折、講座やレッスンで口にする言葉「滞り」。
これは、とても感覚的な曖昧なものでもある。
例えば「楽器に指を置いたまま持ち上げると、肩や首に滞りが生じるでしょう」といった具合に。
この曖昧なものをしっかりと研究対象にし、実験を考え出し、研究発表することとなった、と電通大の阪口豊先生からご連絡をいただきました。
今更、こんなことを言うのは失礼、とは思うけれど、「研究者」というのは凄いなあ、と改めて感服。
だって、「滞り」ですよ?
詳細は、まだ発表前なので書けないけれど、よくぞ思いついたなあ、という検証方法。
きちんとデータもとれ、私の「なんとなくの感覚」という曖昧なものを、実証してくださったことがとても嬉しい。
さらには、その原稿には私への謝辞まであり、恐縮至極。
いや、お礼するのはこちらである。
もちろん、数値化できる、というのは極々限られた一部分ではあるけれど、それでも、こうして甲野先生が道を切り開いてくださっている、「新たな心身の科学、哲学」が、少しずつ証明されていく流れが生まれている、というのがとても嬉しい。
阪口先生の研究発表原稿を読ませていただいて、改めて感じたのは、今の私の奏法というものは、かなり身体の奥の出来事の話になってきたのだなあ、ということである。
つまり、「滞り」というのは、そうなる以前の、身体の表面での出来事だったのだ、と今、思う。
もちろん、今だって、無自覚の「滞り」はわんさかあるのだろうけれど、それでも、各段に減ってきているのは事実。
だからこそ、内側奥が使えるようになってきたのだと思う。
つまり、滞りだらけの、「ねじってためてふんばっている技法」というのは身体の表面を使う技法に他ならないのだ。
だからこそ、一斉に教えやすいし学びやすい。よって世の中に蔓延してしまった、ということなのかもしれない。
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