高校生の頃から知っているので、もう立派な社会人ではあるけれど、ついつい「K君」と呼んでしまう生徒さんのレッスン。
ここで、また大きな気付きがありました。
最新、進化版ピグモンをお教えしたところ、さらに出力アップ。
「ね、だから、いわばイタチごっこなんです。吹きすぎているつもりはなくても、身体が中から整う分、結果として、今までのままだと、吹きすぎです。それでも、かなりのよい感じにはなりますが、あまりにももったいない。そんなもんじゃないです。それでは、この間の私の本番みたいなもんで・・」
と吹き方の調整を。
つまり、せっかく身体の力、重さを伝えることができる手の内になっているのに、肝心の最後の最後で、鍵盤を指で叩いて音を出そうとするピアニストと同じことをやってしまう。
フルーティストは、息で叩いてしまっている。
もちろん、ここまで身体が繋がっていない場合は、そうしないと音にならない、つまり間に合わないので、仕方がなかったのですが、せっかく繋がった「伝わる身体」になったのに、あまりにもったいない。
吹かないように心掛けていただいただけでも、大変化で、響きが部屋の壁から聞こえてくる。
つまり、本人よりも遠いところから音が聞こえてくるようになり、びっくりされていました。
そして、バッハの無伴奏フルートパルティータ。
で、ふとみると、右手の手首が若干ブロックされていたので、そこを修正。
「ね、バッハがオルガンを弾いて居る時の絵や、バッハだけでなく、他の弦楽器奏者の絵も見てみて。それに、素敵なチェロ奏者の手首も!あ、ここにピグモン先生もいるし・・」
と人形を見せる。
「これは、つまりは、ガジっと手首で固めるのでもなく、ただ力を抜いてブランとするのでもなく、このピグモンの手の内で釣り合いを作って、つなげている、ということなんですよ。ちょっと、チェロを弾く真似してみましょうか?」
と右手を動かしていただき、その後吹いていただいたところ、それまでとは全く別次元の響きがカーンと。それもほとんど、なんの力みもなく。
これにはお互いびっくりでした。
で、すぐにわかったのは、可動域が否か、ということ。
フルート奏者は、もしかしたら、可動域じゃないところで楽器を操っている場合が多いかもしれないです。・・
「横笛」だと思って・・
それでも、もちろん、なんとかなるし、素敵な響きには、なるけれど、あまりにももったいない・・
手首がふんばらないようにするための場所、すなわち、可動域内。
ということで、私もすぐに修正。
この修正は、腕だけでなく、むしろ、左足、股関節を使う。
まさに、最初に「え!?」と驚いた、抜刀の時の腰の切り方です。
当時は、これで、楽器に対し、身体幹が平行となり、息の通りがよくなり、その後10年、大きな進展の原動力となりました。左足は後ろに。
その後、昨年、2014年9月、師匠の傘寿記念コンサートの最中に、左圧縮右解放のためには、むしろ左足が前、と気付き変化。
そして、昨日、2015年5月17日、足の位置は上記の状態で、腰は抜刀の時のもの、という身体に。
箱根細工の小箱を色々とひねって回してカチャっとはめ込むような、なんというか、とても複雑な構造です。
これで、一か月は経っていないけれど、本当に、前回、植村先生のレッスンの折に「出た!」と思った、あの響きを久々に体感することができました。
おそらくレッスンの折は、先生はいつも沢山吹いてくださるので、その身体性が微かではあるにせよ、いくらかうつっていたので、あの音になったのだと。
感動のあまり、自分がどんなことになっているかは、全くわからず、身体の状態を再現するなんてことはハナっからあきらめていた。
でも、それが今、ポーンと軽やかに、深い身体の奥底からの響きに。ようやく手の内に。
この今のピグモンの状態で、腰を切った瞬間は、「響きの扉」がようやく、グーっと少しだけ1ミリにも満たないけれど、開いて、眩しい光が漏れ出したかのような瞬間でした。
Kくん、茫然。
そして本日のシニア、Tさんも茫然。
急に、響きだし、指も舌もかつてないほど、動くようになられ、とても喜んでいらっしゃいました。
年を重ねて衰えるのではなく、まさに「今がピーク」
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まとめると、本当に、従来のメソードを否定することばかりで、気がひけなくもないけれど、そもそも、メソード自体が、誤訳の多い伝言ゲームの様なものなんで、そのあたり許していただきたい。
多様性があるからこそ、人類は生き延びてこられた、ということを思い出しつつ・・
蕾の手の内からピグモン
ピグモンで左圧縮右解放
足裏は平。でも、ペタっとするのではなく、足の内を作る。(ピグモン足版)
(オプション・下駄を履く)
舌はなんちゃってはるかからピグモン(変顔プルルルも補助的に)
フルートを持ち、右手を回転させつつ右足で運ぶ。
巷で流布しているところの「3点支持」をやめる
そもそも、一体誰が言い始めたのか?どう考えても、不自然なことばかりです。
支点は、口元ではなく、左手人差し指付け根
シーソーの原理。頭(の重さ)を使う!
昔は、頭部管にテグスで釣り用の錘をぶら下げていたこともあったっけ・・あまりにも注目され るので説明するのが、面倒くさくなってやめてしまいましたが、惜しかったと思う。
もっと頭(の重さ)を使えば、良かったんだ・・
腰を抜刀の時のように切る
巷に流布している、お腹の支え・腹式呼吸・丹田などの曖昧な概念を捨てる。
これらは、身体ではなく、みな「脳」が「わかったつもり」になって作り出したイリュージョン、まがい物と言っても過言ではないのでは、と。
自分で、どうのこうの、というのは、みな表面的なまがい物ではないか。
本来のお腹の支え、深い呼吸、丹田、というのは、動き、ポジション、道具と身体の調和、釣り合いの結果としてもたらされるものなので、とりあえず、気にしないことにする。
吹きすぎないようにし、息に頭の重さを乗せる。ピアノで指先に重さを乗せるのと同様に。
指をキィのそばにいつも置いておきましょう!(これも巷に流布)ではなく・・・
古の巨匠、エマニエル・バッハやテュルクの証言は、クラヴィーア奏者だけでなく、フルート奏者であっても傾聴する価値はあると思う。日本語でも読める幸せを噛みしめつつ・・
「手の動きは、掴もうとしたり、離そうとするのに適している」
これが、私の場合は「魚の胸鰭」と表現していたのですが、ちょっと人間からは離れすぎていたかも。根本はここではありますが、もう少し進化させてネコやサルでもよかったかも。ひっかくような指使い。
これも試す価値は大いにあると思います。身体の重さが乗る手の内であれば、滞りが邪魔していない身体と心であれば、一瞬の引っ掻きでも十分にパーカスできるし、むしろ、すぐにそのパーカスされる対象から離れることができるので、結果響きを止めない。
その上、このやり方であれば、本来の自然な動きに適っているので、むしろ、動くことにより、手指、手首の疲労はリフレッシュされ回復することになる。
指を一定のカーブに保ったまま鍵盤を打つハンマーのごとくに上下に動かそうとするのが、そもそもの一番のふんばりの始まりかもしれません。
だから動くたびに、疲労が蓄積し、結果、腱鞘炎がプロの証明みたいに言われたりするようになる。
フルートでも、キィの動きに、人の指の動きまで似せようとして、ヘンなことになっていると思う。
つまり、それはとても手首に負担を強いて、響きを止めている。
神が創った機械(人間)を人間が創った機械(楽器)と同様に取り扱ってはいけない、とライプニッツも言っているというのに。
以上のことを淡々と実践すれば、あとは地球の重力が助けてくれる。
言い換えれば、自分で何かしら実感求めた力む動きをする、というのは自然の摂理に反しているので、重力の力を使えないままで、とてももったいないと思う。
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