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2015年04月27日01:37

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合わせ練習で

川越の海沼さんのお教室で一日、合わせ練習をしました。

もちろん、履物持参で。

ロングドレスで隠すことのできる女性陣、元美さんと私は下駄。

下駄は、「お腹でしっかり支えて」とふんばりさえしなければ、誰でも浮かせてくれる、つまり楽器込の釣り合いを教えてくれる、素晴らしいツールです。

そして、靴の男性陣。もともと、足裏は平になるので、女性が履くハイヒールよりは害(あくまでも、離陸で吹きたい時の場合。部分のふんばりを利用する通常の場合であれば、むしろ助けてくれるかも?)が少ないのですが、足指がおおわれてしまうのと、底の素材がゴム系であると、そこに響きを吸われてしまい、この奏法の場合は裸足の方が良いです。

ゴムやシリコンはベチャっとした感じがし、マスクして演奏するような感じがするので、演奏時はなるべく遠ざけたい。

ところが、今回の出演者、額賀さんの靴は、むしろ離陸を助けてくれるような素晴らしい靴でした。

採寸し、木型を作り、安い皮で仮縫いもし、調整した後、作る、という本格的なオーダーメイド。

演奏用に、と創られたその靴は、サックリとした桐下駄にも通ずる、素晴らしいものでした。
これなら、むしろ助けてくれる、というものです。

フィットした革底の靴は、履いているのが気にならない。そうか、だから靴のままでもベッドに寝転んで寛げるのか・・
と西洋の文化に思いを馳せる。

本来、洋服にしても、靴にしても、その人夫々の体型に合わせて別個に創られていたものです。

資本主義・商業主義のもと、誰もがそこそこの値段でそこそこのものを入手できるようになった。

特に、日本では、元々の洋服と靴の文化がありませんから、そのあたりがおろそかになってしまっても、それは仕方のないことかもしれません。

洋の東西、問わず、人間の身体性がここまで変化した原因は、こうしたこととも関係があるのでしょう。

今よりも不便で、お店も少なかった子供の頃は、「お出かけ」の洋服はそういえば、みな仕立て屋さんで仮縫いして創ってもらっていた。

でも、靴を仕立てる、という感覚は少なくとも我が家には皆無でした。

日本でも昔の、戦前の中産階級以上は、もしかしたら、靴も仕立てていたのかしら?

額賀さんの場合は、演奏の為と同時に、とにかく靴が大好きで、まあ、私の数年前の着物熱や現在のトリファリ熱、同様、はまってしまった、ということなのだそうですが、そのお蔭で、素晴らしい演奏の為のある意味、楽器の一部といっても良い靴を手に入れることができた訳です。

なので、私のトリファリ収集もきっと・・
(この話はまたいずれ)

海沼さんも、オーダーではないにしても、やはりお洒落で、靴好き。軽い革底の靴で、良い演奏をされました。

音楽家男子はまあ、みな、ある意味女子よりお洒落でグルメだなあ、そういえば。

女子の方がむしろキッパリ、サッパリ、バンカラ系が多い。というか、そうじゃない人を私は知らない。さらに皆、酒豪だわ・・


でも、おそらく、男性陣は、お二人共、本当は下駄だと、きっともっと響くのになあ、と申し訳ない。

アンサンブルも敢えて、最初は裸足、その後は下駄と靴で、とやったのですが、かなりの変化となりました。

やはり、リズムのノリがとても良くなるし、響きも増し、より溶け合います。

とは言っても、まだいくつかの踏ん張りの個所、つまり、出力が増した分、調子に乗って実感込めてしまってうなってしまったり、ぶっちゃけたり、という惜しい!という音も。

で、ここで、今回のピグモンをレクチャー。

みんなで、まずはピアノ。フリーデマン・バッハの音楽帳の話を。

ピアノも大変化でしたが、もちろん、夫々の楽器の響きも、そして指、舌のまわり方も大変化。

大化けでした。

海沼さんと魔笛の2重奏をやっている時にびっくりしたのは、(実はこれを吹くのは前回の練習以来)後半の早いパッセージのところが、全く速く感じられず、でもテンポが遅くなっている訳でもない、なのに、とても遅く、スローモーション映像の様に感じられた、ということです。

聴いていてくださった元美さん、額賀さんからは「遅くはないのに、なんだか、凄いことをやっている様に聞こえなくて、ああ、フルートは簡単な楽器なんだな〜、と思えてしまいましたよ。」

これは、かなり嬉しいし、私の技量では今までにはなかった感覚です。
確実に技が変質し、少しはマシになった、という手応え。

「ヘンな例えだけど、巨人の星で、花形が消える魔球か何かが、止まって見えた!っていうのがなかった?まさに、そんな感じでした。星君、見えたぞ!みたいな・・」

実際、その時の時間だけがスローモーションになって違う流方をしていた。
とても不思議でした。

海沼さんも同様の感覚で、演奏後、嬉しそうに私を見る目が「先生、良くこんなこと、思いつきましたよね〜」といった、最早呆れ果てたヤレヤレ感すら漂う。

これまた、誰よりも私がヤレヤレ、と思っているので、嬉しい。
肩をすくめ、掌を上に向けてマユゲを動かす、あのハッピーなヤレヤレ感。

サックス2重奏も聴かせていただいたのですが、お二人ともフルート組に比べるとまだキャリアが少ないので、まだまだ曲となると先祖返りしてしまいがち。

その一番の違いは、まだまだ2足歩行的身体に馴染んでいるから、というのもわかり、腰のあたりを修正していただきました。

ゆっくりの楽章になり「きれいに吹こう」と思うと、それが居付きを呼び、身体の滞りに繋がる。そうなると音は響きを失い、音色のキャパも狭くなりペタンコになるので、「音程」の話をしなくてはならなくなる。

「そこ、ちょっと低いかな?少し高めにしましょうか?」

みたいな会話をしなければいけないのは、ふんばった身体で出す音だからで、その時点で、待てよ、違うぞ、と気を付けた方が良い。

四足歩行的身体で、協調させた、そしてこのピグモンの手の内となんちゃってはるかで整えた左圧縮右解放の身体であれば、音程の話をしなくても済むアンサンブルとなります。

音のキャパが広く、溶け合い調和するので。

サックス組も、こうして脚のコビトを増やすようにしたら、とても素晴らしいアンサンブルとなりました。

最後に私の演奏で、バッハの無伴奏チェロ組曲第5番を聴いていただく。

人様の前で披露するのは今回が初めてです。

ピグモン効果の凄さを改めて感じたのは、インターバル、音色、音量のコントロールが、身体の僧さをあれこれしなくても、勝手になる、ということ。

つまりは「ハイ、モシモシ♪」と急に声がオクターブ裏返る「お母さんの電話」です。
人の身体は余計な滞りを作らなければ、それしきのことはやってのける。

つまり、必要なものはファンタジーのみ。
そして、そのファンタジーが独りよがりにならないための、ボン・グー、「良い趣味」を養う為の勉強。もちろん、音楽に間違いはないので、様々な語り口があっても良いと思う。

でも、その曲の持つ良さ、美しさ、エネルギーを一番発揮できるのは、やはり、その時代と作曲家に寄り添った、もしくは寄り添おうと努力した結果の趣味ではないか、と思う。
そして、そんな演奏が私は好きだ。多少踏ん張っていたとしても。いや、多、はだめか・・

殆どのプロは、踏ん張っている。バッハクラスの超天才じゃない限り。私だって、まだまだ無自覚の踏ん張りはある、と思っている。だって、まだこの程度のレベルだから。要は程度と自覚の有無の問題。


野放図で、自分のチープな感覚だけを頼みに演奏していた私を根気良く導いて、勉強の仕方、参考文献等を教えてくださったのが、師匠、植村泰一先生。

「白川、音楽性って何だと思う?」

「・・・心ですか?(だから「性格悪い!」としょっちゅう怒るのかしら?)」

「教養だよ!」

もちろん、その教養をもたらすのも、実は謙虚な心と素朴で素直な探求心だったりもするから、心も間違いではないのだけれど、メウロコの回答でした。

シャコンヌを編曲したころから少しずつ色々と目を通してはいるけれど、まだまだ全く足りていない教養。

でも、クヴァンツ、エマニエル・バッハ、キルンベルガー、テュルク、アグリコーラ、と古の巨匠達の言葉を日本語で読めるのだから、良い良い時代に生まれたものだと思います。

師匠や、語学に堪能な演奏家、学者は、みな、必ず原語にもあたっていらっしゃる。
ドイツで活躍されているOさんは、亀の甲文字の、ドイツ人も読めない古いドイツ語にまで触手をのばし・・
きっと、そこでまた、日本語だけでは得られない何かを得ていらっしゃるのだろうな・・
(ちなみに、9月に帰国され、コンサートが。とても楽しみです。)


フランス的序曲は深い苦悩を含みつつも、パキっとした明るさも秘めている。
そして模倣と対話のフーガ。

アルマンドは、このフランス様式の組曲の中で最もドイツ的な、もしかしたら、バッハが一番気合を入れた個所かも?まさにドイツ!

クーラントはドイツの国境を越えて南下し明るい光の中を疾走。しかし厳粛。

そして、サラバンド。おそらく、この組曲の黄金分割的位置に配されているんじゃないか、と思うのですが、究極のモノディ。
これは、無伴奏チェロ組曲全6曲の中の頂点でもあるのではないか。
究極のシンプル、静けさのクライマックス。
荘厳なベラスケスの絵画の様なサラバンド。

(一カ月前は、私の悪い癖、エセロマン派、場末の芝居小屋のお涙頂戴にならぬよう、ついつい、速めのテンポを設定して、師匠にはニンマリされましたが、緩やかなテンポの中でのシンプルな構造の美を心掛けたい・・この楽章が最も難しいです。)

優雅で洒脱、そして陽気なガヴォット。

最後は農民の踊りの様な素朴で快活、軽やかなブレで終わります。

韓国の伝統民族音楽、サムルノリ同様、この組曲もまた、人生の全てを表している。
絶望・苦悩・喜び・希望。そして神への感謝と賛美。その中で蠢く膨大なエネルギー。
プラトン的なもの、とディオニュソス的なものが矛盾せず、混在する音楽。

起承転結と結んで終わるのではなく、起承転解、と名付けたい。

全てを解き、天に返し寿ぐ。解き放たれたモナド・魂は永遠に宇宙を巡り続ける。

曲はこれで終わった様に聴こえるかもしれないけれど、まだまだ続いているんだよ、と。

これが私にとってのバッハの組曲。

こうしたことを、ほんの少し思うだけで、勝手に変化する音色。
この手の内になるまで、つまり数日前までは、微妙な操作が必要だった。それが今は結果として勝手に身体全体が変化するような感じなので、より音楽に没頭できる。それによって私の心身はより元気になる。

音楽は、人を「より善きもの」へと導いてくれる儀式のようなものかもしれない。

これなら、私は音楽とフルートが大好きだ。
もちろん、教養を始め、心も技もまだまだではあるものの、この日の練習で、ようやくようやく、長いトンネルを抜けることが出来ました。

去年は身に付ける指輪やアクセサリーで変化するのが面白く、色々と試みましたが、今回は、想うだけでいいんじゃん?とばかりに、ずっと同じ指輪で。
楽章ごとに指輪付け替えるというのは格好悪い。

バッハには、やはりダイヤの響きが最も似合うと思う。結婚しといて良かったな、と夫に感謝。
結婚指輪のダイヤ一文字は左足の薬指に、そして、婚約指輪のブリリアントカットは左手の薬指に。



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