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2008年02月21日01:20

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三原順のセルフ・マーダー−自死論04

「何が『いろいろ考えた挙句やはり自殺するしかないと』だ! 自殺方法の一つも自分では考えないくせに。『耐えられない現実』に対して貴様自身がどれだけの事をしてみたって!? なのに今更、平気で涙ながらに悲劇の主人公ぶっても醜悪なだけだって事さえ分からないのか! やりたきゃ勝手に一人芝居してろ!! だがオレは糞溜めじゃないぞ!」
「全く…近頃の自殺志願者ときたら、他人の悪口やら自分の苦境、絶望感の深さを口にして、自分の繊細さを誇示することなら抜け目なくやってみせるくせに、チップもよこさず、オレに懺悔用の坊主や精神科医…それに役所の福祉係の役まで押しつけておきながら、罪悪感などかけら程も持っちゃいない。ガス爆発で隣人を巻き添えにする可能性とか、電車の利用者達の時間を奪う事にさえ気づかない連中の多さよ!! 『そんなだから貴様ら社会に適合できず、自殺しかできねェんだろう!』…と言ってやりたくなるが、どうやら奴(やっこ)さん達、現実から逃れられると思った途端、夢見心地になって、自殺もまた歴(れっき)とした現実であるってことを忘れちまうらしい。だが、首を吊るロープの理想的な長さや太さを知らないのはまだしも、手首の静脈に引っ掻き傷をつけるだけで死ねると思うのはひどすぎる。」

三原順『三原順傑作選 ’80s』(白泉社文庫・1998年)所収
self murder series…4「夕暮れの旅」の中のボブのセリフより

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「花とゆめ」に連載された「はみだしっ子」という極めて特殊な性格を持った少女漫画で、三原順は多くのファンを得た。その後も寡作ながら個性的な漫画を描き続けたが、以前の日記にも記したとおり、1995年(平成7年)3月に42歳で亡くなられた。『ビリーの森ジョディの樹』という漫画が、未完成のままに遺された。
若く、また突然の死に、「自殺ではないか」という憶測も流れたが、死因は病気によるものとされており、僕自身は、そのことに疑いを持つ理由を持たない。
ただ、『ビリーの森ジョディの樹』の内容は、多分に暗示的で、「死」を予感させるところがないでもない。漫画家の川原泉が「静かですが途轍もなく深い作品」と評するこの遺作の中では、ビリーという死者とジョディという生者との魂の「交流」が描かれている。主人公たちの表情には、何か鬼気迫るといった感もある。内容は、オカルト的というよりは、むしろ心理的・哲学的なのだが、読んでいると、何か背筋に走るものを感じるようなところがある。
この物語(全二巻)の終盤になると、「画」には鉛筆描きのデッサンのままのところがあり、あるいはセリフだけで画が描かれていないコマが出てくる。そのことによって読者は、この物語の作者が、もう画を描けないところ(死の側)にいることを否応なく実感させられる。しかし作者は、死者と生者の交流について、読者へと語りかける……。

従来の三原順の作品では、セリフは哲学的であったり形而上学的であったりもしたが、テーマそのものは、「家族」であるとか「社会」であるとか、比較的ソリッドな(固い)ものがおおかったような気がする。「霊魂」のようなソフトな(あるいはリキッドな)テーマは少なかったと記憶している(ちょっと自信なし。)。

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三原順の「セルフ・マーダー」シリーズの第4作「夕暮れの旅」は、「自殺」という重たいテーマをコミカルに描いた傑作だ。「自殺(者)」のことを「suicide」ではなく「self murder(自己殺害者)」と呼ぶところも面白い。
主人公のボブは、自殺コンサルタントを仕事としている。自殺志願者が、希望どおりの自殺を遂行できるようにと、さまざまなアドバイスやサポートを行う仕事だ。しかし、客の中には、真摯とは言いかねる自殺志願者もいる。そんな似非(エセ)自殺志願者と出会ったとき、自らも自殺志願者でもあるボブは、強いフラストレーションを覚える。そして、彼(彼女)らに、「正しい自殺」について熱心に指導することを試みる。
ボブの不満は、自殺を「悪」ないし「望ましくないこと」と決め付ける「社会」に対しても向けられる。

「自殺もやり方次第では、利点があるんですよ! 精神が退廃しきる以前の尊厳を保った死…そして、他の人々への配慮をともなった死になり得るというね!」
「オレが手掛ける連中には、あんた達に難癖つけられる様な死に方はさせないからな!!」
「もしいつか…自殺が認められた行為として陽の当たる場所へ出られる日が来たなら、どれほど多くの人々が穏やかな気持ちで最期にのぞめるか」

ボブは「正しい自殺」の実績を積み上げようと努力する。それが、彼のミッション(職業的使命感であり、生きる意義)であるのだ。

ボブのような「自殺肯定論」の原型は、ヒュームやショーペンハウエルの「自殺論」、あるいはもっと古い(ストア学派やそれ以前のギリシャ哲学などの)生死観にまで遡ることもできるだろう。たとえば、ショーペンハウエルは次のように書いている。
「一体誰にしても自分自身の身体と生命に関してほど争う余地のない権利(レヒト)をもっているものはこの世にほかに何もないということは明白ではないか。」

また、帝政期ローマの大プリニウスも次のように言っているのだそうだ。
「生命というものは、どんな犠牲を払ってもこれを延ばしたいというほどまでに、愛着せらるべきものではあるまい。」
「自然が人間に与えてくれたあらゆる賜物のなかで、時宜を得た死ということにまさる何物もないのだ」

ショーペンハウエル『自殺について』(訳:斎藤信治、岩波文庫)より

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三原順自身は、「自殺」というものについて、どのように考えていたのだろうか。「夕暮れの旅」を読むと、自殺を否定する世間一般の考え方について、彼女が批判的であったようにも思われる。ボブと同じように、三原順自身も「正しい自殺」の観念を追及していたのではないか。しかし、そのボブが、作中でコミカルに揶揄されているところなどを読むと、彼のような「真摯な自殺」観をも、三原順は相対化しているようにも感じられる。作者の本心がどこにあるのだろうか。容易には知られない。

三原順は、今も、そしてこれからも、作品を通じて我々に語りかけるだろう。しかし、我々がどんな問いを投げかけても、彼女がそれに答えてくれることはない。
それでも、彼女の弟子たちは「三原順は、私たちの世界から、私たちの内なる世界へと住みかを移し、相変わらず生き続けている」(くらもちふさこ)などと言う。
昨日引用したサルトルの「生者の餌食になる」ということと、この「心の中に生きる」ということは、同じコインの表と裏であるような気がする。

(つづけるつもり)

追記1:セルフ・マーダー・シリーズの第3作は「PM2:30 21F」というものだ。広告代理店に勤める営業部長が、医師から完治の見込みのない病気であることを告知される。ただちに生命に関わる病気ではないが、「無理をしてはならない」ことを宣告される。妻とは離婚し、ひとり息子の出来が悪い彼にとっては、会社での出世こそが生きがいであった。しかし、この病気のために、もう出世も望めないだろう。そう思った彼は、役員室のあるビルの23階から飛び降りて死ぬことを決意する。しかし、23階への階段を昇る途中で、つまり避難階段の21階で、彼は心臓発作を起こす。「あのヤブめ! 言わなかったじゃないか。心臓が悪いなんて…ひとことも…」と言い遺しながら、彼は階段で果てる……。彼は、彼の最後の望み、「23階からの飛び降り自殺」を果たせずに死んだ。
「昇進コースからの脱落」、「反抗的で出来の悪い息子」……。昔に読んだときには何とも思わなかったけれど、なんだか凄く身につまされるぞ、この話。僕は部長ではなくて、課長代理だけれど(笑)。

追記2:我が母校のコミュニティに書かれているコメントを読んでいたら、「華厳の滝」で投身自殺した藤村操が、母校の先輩(1886年生まれ。12歳で札幌中学入学。ただし父親の死亡[自殺?]のため転校。)であることが書かれていた。
自殺の文学の渡辺淳一、「セルフ・マーダー」シリーズの三原順……。なんだか我が母校が「自殺」に関する名門校であるような気がしてきた。変な学校(笑)。

<中年になれない人種(三原順など)>
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=113165835&owner_id=2312860
<三原順メモリアル(立野氏のHP)>
http://tateno.pos.to/mihara/
<三原順コミュニティ>
http://mixi.jp/view_community.pl?id=6511
<生と死に関する日記の目次>
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=515589683&owner_id=2312860
<自死論>
(1) http://mixi.jp/view_diary.pl?id=716538318&owner_id=2312860
(2) http://mixi.jp/view_diary.pl?id=719505955&owner_id=2312860
(3) http://mixi.jp/view_diary.pl?id=720539038&owner_id=2312860

ついでだから、藤村操が華厳の滝の傍らの木に遺したという「巌頭之感」を記しておこう。

「悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て比大をはからむとす、
ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、
胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、
大いなる悲觀は大いなる樂觀に一致するを。」
http://www.geocities.jp/sybrma/02hujimura.htm
http://www.geocities.jp/kazuo714/Kapitel7.htm
http://www.marinenet.co.jp/jinpati/lastsong/misao.htm
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