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2008年02月20日01:03

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アンチゴーヌと純子−自死論03

アンチゴーヌ:「愛する人。私は死ぬことを望んでいた。そしてあなたはたぶん、私をもう愛さないでしょう。そしてクレオンは正しかった。今この人のそばにいるのは恐ろしい。私は自分がなぜ死ぬのか分からなくなった。怖いわ。・・・ああ、エモン。私たちのぼうや。私はたった今分かった。あのころ生きることがどんなに単純だったか。・・・」
「いいえ、みんな消して。誰にもこれを知らせないほうがいい。これは、私が死んだとき、みんなが裸かの私を見て私に触れるのに似ている。ただこう言いましょう。『ごめんなさい』」
「ごめんなさい、愛する人。ちっちゃなアンチゴーヌがいないと、みな平穏でしょうね。私はあなたを愛している。・・・」
衛兵:「『ちっちゃなアンチゴーヌがいないと、みな平穏でしょうね。私はあなたを愛している。・・・』これで全部かい?」
アンチゴーヌ:「ええ。これで全部。」
衛兵:「奇妙な手紙だ。」
アンチゴーヌ:「そう。奇妙な手紙。」

アヌイ『アンチゴーヌ』(訳:石川吾郎)より

「自殺は、私の人生を不条理なもののなかに沈没させる一つの不条理である。」(624)
「死は、私が私自身についてそれであるところの観点に対する、他者の観点の勝利である。」(624)
「死者であるとは、生者たちの餌食となることである。したがって、自己の未来的な死の意味をとらえようとこころみる者は、他者たちの未来的な餌食として自己を発見しなければならない」(628)
「死ぬとは、もはや他人によってしか存在しないように運命づけられることであり、自分の意味や、自分の勝利の意味そのものをまでも、他人から頂戴することである。」(628)
「事実、この死は、対自と世界との、主観的なものと対象的なものとの、意味づけるものとすべての意味との、同時的な消失であるだろう。」(630)
「死から出発して私の人生を問題となし、私の人生について思索することは、私の主観性に関して他人の観点を採用することによって、私の主観性について思索することであろう。われわれがすでに見たように、それはありえないことである。」(630)

サルトル『存在と無』(訳:松浪信三郎)の中の「私の死」より。数字は原著ページ。

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前に、時任純子とアンチゴーヌのことを考えていて、中途半端に終わってしまったことがあった。今回も中途半端なものにはなるだろうが、我が青春の教科書であるサルトルの『存在と無』の中の「私の死」を軸として、少しだけ考えてみたい。

アンチゴーヌの死を自殺とみるか刑死とみるかについては、若干の議論が必要かも知れない。しかし、ここでは、自殺的な行為の末に過酷な刑罰を受けて自ら首を縊ったという点から、一応は「自殺」と見做しておく。毒杯を呷ったソクラテスに比べても、彼女の死の方が、自殺的性格が強いように思われる。

前に「ゲッセマネのアンチゴーヌ」として採り上げた、「死」を目前としたアンチゴーヌの逡巡の理由は、サルトルの言葉を介すると、よく理解できる。純潔の少女であるアンチゴーヌにとって、死後に「他者の餌食」となることは我慢がならないことだったのだろう。愛する人のために遺そうとした本心(裸の私)でさえ、他人の目に触れて汚されるよりは、むしろ存在させない(遺さない)ことの方を択ぶ。このような心情は、潔癖さの究極であると言えるかも知れない。

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世俗的な意味で言えば、純子は、純潔や潔癖さの対極にある。「画を描くために必要だ」と言われれば、中年の男に自分の純潔を簡単に(捨てるように)差し出す。裸の姿のまま、5人の男の間を行きつ戻りつする。
そして、死に際しても、アンチゴーヌとは逆に、「赤いカーネイション」に象徴される過剰な演出を男たちに遺していった。このことは、当然に男たちの「誤解」を呼ぶ。
「誤解されること」「真意を理解されないこと」は、普通に考えれば苦痛である。しかし、純子にとっては、それが快感であったのかも知れない。異なったタイプの5人の男が、それぞれに都合よく自分を誤解する姿を想像しては、或いは自分の死後も「裸の自分」を想い描き続けるであろうことを予期して、ほくそ笑んでいたのかも知れない。
サルトルが言うとおり、一般論としては、生者が死者を餌食にする。しかし、こと純子の場合に限っては、「死者が生者を餌食にした」のではないか。
「死者が生者をとらえる!」(Le mort saisit le vif ! )
何かそうした魔術的なことが、純子の自殺の中にはあるように思われる。

引用したサルトルの最後の言葉は、純子の態度に対する批判のようにも読める。純子は「他者の観点」を基軸として、「自分の死」を考えている。サルトルに言わせるならば、それは幻影に過ぎないものであり、「自分の死」に対する欺瞞的態度である。
しかし、サルトルのこの言葉は、ハイデガーの「死への存在(Sein zum Tode)」という概念に関わる思索への批判として述べられたものであった。ハイデガーと純子……。むむむ、謎は深まる(笑)。

まあ、こんなことをウダウダと考えても、僕にとっては(そして読んでいるアナタにとっても)、あまり意味のないことかも知れない。もしも、こんな考察が何かの役に立つことがあったとしたら、それはきっと、トンデモない時だろう(笑)。

追記:死後、「自分の死」が「他人の餌食になる」という事態を徹底的に無視する態度もあり得るだろう。渡辺淳一が『失楽園』で自殺(心中)させた男女の最期の態度は、そのようなものの典型であるようにも思われる。

<アンチゴーヌ/アンティゴネーに関する日記>
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<ゲッセマネのアンチゴーヌ>
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<アヌイ『アンチゴーヌ』(訳:石川吾郎)>
http://homepage2.nifty.com/parad/Antigone/Antigone1.htm
http://homepage2.nifty.com/parad/Antigone/Antigone2.htm

<ハイデガーとサルトル>
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<生と死に関する日記の目次>
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<自死論>
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