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2008年02月19日00:25

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加清純子とジュリエット−自死論02

1982年頃、僕の母校である札幌南高校の新聞局のOBが中心となって、南高の新聞局が発行した新聞の「縮刷版」を出版しようという話が持ち上がった。当時、高校3年生だった僕は、この事業に「生徒」の身分でありながら参加した。本来ならば受験勉強に専念すべき時期であったのかも知れないが、その頃の僕は、大学進学への明確な志望動機も見出せないまま、何かと勉学以外のことに精を出す日々を送っていた。
この事業のユニークだったところは、学校当局から完全に独立した若手の有志による事業であったことだ。普通、高校新聞の縮刷版を作るということは、学校の周年行事などの一環として行われるのではないかと想う。しかし、僕たちの縮刷版は違った。この縮刷版には、30ページほどの解説が付されたが、その解説は、札幌南高校という定点において「高校生の視点から、戦後教育を問い直す」というような強い問題意識の下に執筆された。場合によっては、学校当局のみならず、教育行政のあり方についても批判的な立場から書くことがあり得た。そのため、母校の先生やOB会などから多大なるご支援・ご協力を頂きながらも、編集・出版そのものは、独立した「有志」の責任と負担によって行われた。
書籍の編集者や地方新聞の記者なども含む「有志」の中に混じり、僕も記事を書くことになった。このときに受けた厳しくも優しい「指導」は、その後の僕に大きな影響を与えたが、そうした思い出話は、後日の日記に記すこととしよう。

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このような事業に携わる中で、僕は、母校で起きたさまざまな事件についても知ることとなった。札幌中学、札幌第一中学、札幌第一高校を前身に持つ母校の関係者は、地方の学校としては、まさに多士済々たるものがあつた。その中で僕が一番興味を持ったのは、加清(かせ)純子と渡辺淳一のカップルであった。

ある日の編集会議の後の雑談で、ある先輩が「札幌南高新聞」(第2号1951年1月20日号)のコピーの中のイラストを示しながら、こう言った。

「ほら、これが渡辺淳一の『阿寒に果つ』のモデルとなった加清純子が描いた絵だよ」

そこには、「J.KASEI」という署名の入った女性像のイラストがあった。渡辺淳一が高校の先輩であることは知っていたが、僕は(図書局長であったにも関わらず)、彼の本を一冊も読んでいなかった。そして、先輩に勧められたとおり、古本屋で『阿寒に果つ』を買って読んだ。今や愚鈍を絵に描いたような中年男に「成長」してしまった僕だが、高校生の頃には人並み程度には感受性というものがあった(笑)。だから、高校生の自殺を描いたこの小説には強い衝撃を受け、また奇妙な感慨を抱いた。

奇妙な感慨というのは、この小説の中に描かれた「物語」との距離感にまつわることだ。
この小説の舞台が、1951年前後の母校であることは明らかだった。そして、小説の中の「私(田辺俊一少年)」は、図書部長を務めている。品行方正で学業優秀であった(そしてまた、美男子でもあった)点において、俊一少年は僕とは似てはいない。それでも、物語の舞台や背景、そして少年の心情について言えば、僕はこの物語に親近感を覚えた。
しかし、俊一少年の「彼女」である時任純子は、まるで異次元の住人であるようだった。「美しい死」というものにこだわり、年配者を含む5人の男の心を手玉にとり、雪の深い阿寒湖のほとりで服毒自殺した18歳の少女については、何もかもが理解できなかった。その理解し難い者(の実在のモデル)が描いたというイラストが、手元にある高校新聞に掲載されているということのリアリティが、高校生だった僕を少なからず混乱させた。

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時任純子のモデルとなった加清純子は、1951年1月25日に阿寒湖のほとりで服毒自殺したのだそうだ。遺体が発見されたのは、2ヵ月半ほど経った4月の初めだったそうだ。
そのときの「純子」の様子について、『阿寒に果つ』では次のように描かれている。

「純子の顔は見事に蒼ざめていた。血の一滴まで凍て果てたのか、蒼白の額に前髪がかすかに垂れ、堅く閉じた眼を長い睫がおおっていた。」
「それは美しいというより、稚く、たおやかであった。もはや甦らぬ死がそこにあると知りながら、生きていることを主張しているように見える」
「間違いなく生きていた時以上に、それは美しく、鮮やかであった。」

時任純子のモデルである加清純子について、渡辺淳一は『阿寒に果つ』の後にも、少なくとも以下のとおり3回は書いている。

(1)「自殺のすすめ」『自殺のすすめ』所収
(2)「雪のなかの日々」『雪の北国から』(1976年)所収
(3)「雪の阿寒」『マイ センチメンタルジャーニイ』(2000年)所収

この他にも、インタビューなどで「純子」について触れていることは、何度かあるようだ。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=311161639&owner_id=2312860
(渡辺淳一の初体験)

(3)の中で、60歳代も半ばを過ぎた渡辺淳一(1933年生まれ)は、次のように書いている。

「純子のように早熟で、エキセントリックな少女には、あのあたりが生きる限界であったのかもしれない。
当時、少年であったわたしには、純子はすべてを知っている大人のように見えたが、彼女は彼女なりに精一杯に背伸びをし、突っ張り、さまざまな演技をしていたのかもしれない」
「十七、十八歳の若さで、それほどの演技を重ねたら、余程疲れたに違いないと、むしろ痛ましく思う。
もう少し暢んびりと、少女らしく生きたらよかったのに。早熟で感性豊かな純子は、一度、虚の世界に走り出したら、もはや止まることができず、これではいけないと思いながら進路を修正する暇もなく、死という大海に飛び込んだのであろうか。」
「いま、わたしは純子に訴えたい。
多くの人々は、十八歳で死んだ君を惜しんで、可哀相で痛ましく、憐れだという。
だが、十八歳で死ぬということは、悲しみとは別に、かぎりない驕りであり、我儘であり、身勝手ではないか。
君の死ほど、さまざまな人に、未知と不可解の部分を残しながら、忘れがたい思い出を刻んでいったものはない。
そんな華麗で贅沢な死を全うした純子を、いまは憎いと思いながら、同時に感服し、そして妬ましく思うのは、わたし自身が年齢をとりすぎたせいなのか。」

渡辺が『阿寒に果つ』を書くには、純子の死から20年を要している。そして、彼が『マイ センチメンタルジャーニイ(私の感傷旅行)』と題した性愛遍歴告白録の中で、彼女の死について総括したときには、彼女の死から半世紀近くが経っている。

僕の脳みそでは消化し切れないようなことは、この世の中には沢山あるが、この(二人の、あるいは一人の)「純子」の自殺も、そのうちのひとつだ。「18歳での自殺」を肯定しようとは思わない。まして、賞賛するような気はさらさらない。しかし、否定する根拠を一つひとつ検討してみると、どうにも自信がない。渡辺の「驕りであり、我儘であり、身勝手ではないか」という責めも、どこか説得力に欠ける。

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今回、この日記を書くにあたって『阿寒に果つ』を読み直してみた。そして、天才少女画家であった時任純子が、死の1年前の1950年2月の「読売アンデパンダン展」に出品した作品の題名が「ロミオとジュリエット」であることに気が付いた。

加清(時任)純子は、5人のロミオをこの世に遺して逝った、
ジュリエットであったのだろうか?

「違う」と人は言うかも知れない。「純子が愛していたのは、自分自身だけであった。ジュリエットは、自分よりもロミオを愛するが故に命を絶ったのだ」と。
しかし、本当にそうだろうか。そのような考えは「自分を愛する者は、自らの命を絶つことなどない」ということを自明の前提としているのではないだろうか。純子のように、自分を愛するが故の自殺というものがあり得るとしても、同じことが言えるだろうか。ロミオはロミオを愛するが故に、ジュリエットはジュリエットを愛するが故に、それぞれに自殺したのだと考えることは、あの古典的な悲劇の「解釈」として、当を失したものであるだろうか?

自分を愛するが故に自分を殺すという行為は、極めて特殊な、ある種の若者のみが取り憑かれる奇妙な熱病のようなものだろうか。
渡辺淳一の万分の一すら「女性」を知らない僕が、純子のことを理解するのは、死んでも(笑)無理かも知れない。しかし、僕はこれからも時々は彼女のことを想い浮かべ、自分の高校時代のことを想い出すような気がしている。

<渡辺淳一のブログ>
http://watanabe-junichi.net/
<渡辺淳一コミュニティ>
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1237524

<自死論01>
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=716538318&owner_id=2312860
<生と死に関する日記>
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=515589683&owner_id=2312860
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