たいていの編集者は急ぐ。日本の伝統芸能というものは、そう性急なものではない。能などは、実に、ゆっくりと物語りが展開する。落語にしても、退屈な人情話の合間に少し笑いがあって、けっこう悠長な話があって、最後に落とすものだ。ようするに、観客は退屈に慣れているし、それを我慢して最後を楽しむという流儀を知っているというわけなのだ。
もちろん、優れた小説も同じなのだ。どれほど退屈な物語りでも、それによって最後が盛り上がるのなら、それでいいわけだ。そして、読者もそれを知っているからこそ、退屈に耐えて読み進むわけだ。
ところが、最近は違う。最初にある程度のインパクトを持って来ないと読み進んでもらえないことになるのだ。ようするに、最初から強敵が登場してしまう。強敵を倒すとさらに強敵、その内には無敵が出て来て、無敵最上級のような敵まで出て来ることになる。修行とか決意とか覚悟の部分は省略しているのである。
この傾向はアニメやテレビドラマで顕著となり、何故か映画もそうなった。映画など観客はお金を払ったからには終わりまでは映画館を出ないものだろうに、展開は早くなっているのだ。
さて、筆者は編集者なので、やはりインパクトを急ぐ傾向にある。ましてや筆者はポルノの編集者だったのだから、なおさらなのだ。想像して欲しい、エロの映像で最初の三十分で一人も服を脱がないものを。それでは商品にならなかったのだ。筆者はよく知らないが、若い頃、エロ映画はエロシーンとそうでないシーンの割り合いが決められていると言われていた。今から思うと噂でしかなかったようにも思う。ようするに裸のシーンが全体の三割を超えるとワイセツとして取り締まりの対象になると言われていたのである。エロ専門の書店などでも、二割は普通の書籍を置かなければいけないという決まりがあると言われていた。いや、今も言われているようだ。
しかし、それはそれでよかったと筆者は思っている。むしろ、逆で、全体の一割か二割がエロというほうが、より官能的になるのではないかと思うわけだ。ところが、それでは商品にはならない。
最後の盛り上がりに向けて序盤は、やや悠長に、と、そんな悠長なことを編集者は考えないのである。だから編集者は作家にはなれないのだ。もし、そこを理解し、泰然と構えることが出来れば、けっこう編集者はいい作家になるのかもしれない。筆者には無理だ。何しろ筆者は居酒屋に行ってさえ最初の付け出しは飲み込んでしまうぐらいなのだから。寿司屋では大トロから入る。コース料理のオードブルは飲み物に口を付ける前に食べ切る。脳が満腹と感じる前ではない、脳が食べたと認識する前にガツンとメインに行きたいのである。
それはいいことではない。
分かってはいるのだ。分かってはいるが、それでも、料理も音楽もスポーツもデザインも絵画も、そして、もちろん小説も、最初にガツンとインパクトを持って来て欲しいと望んでしまうのである。
序曲として、ゆったりと出るものが嫌いなわけではない、むしろ、そうした作品は素晴らしいと思っている。思っていて、なお、それを求めないのである。
冒頭にインパクトなどないままに、それでも読ませる小説。そんな小説を好きになりたい。そうした人間になりたい。退屈を味合わせることの出来るような人間になりたい。しかし、そんな人間にはなれないのだ。何しろ、作家じゃないのだから。
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