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2022年06月16日16:46

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作家じゃないから、その2

 アスリートが引退して監督ではなくコーチをやっているというのは、珍しいことではないだろう。どの競技にも、そうしたコーチはいることだろう。しかし、最初からアスリートではなく、コーチになるために努力していた人は、こちらは珍しいように感じないだろうか。
 あるいは、天才アスリートに凡人の指導が出来るものだろうか、と、そうした疑問を感じることがあるのではないだろうか。
 確かに、少し前には、そうした傾向があったように思う。しかし、今は違う。そもそも、どんな天才も理論なしでは勝ち抜けなくなってしまっているからなのだ。ゆえに、型破りに見える天才アスリートにも、きちんと基本の型は入っているものなのだ。その上で、型破りをするから天才なのだ。ゆえに型を伝授するのは可能なものなのだ。
 さて、問題は、最初からコーチを目指した人たちもいるのだ、ということを知ってもらいたいということなのである。たとえば、スポーツ医学やスポーツ理論だけを追求した人たち、あるいは、メンタリティのみを追求した人たちもコーチになることがあるのだ。そうした人たちは競技者として優れていたというわけではない。しかし、アスリートにとっては大事なコーチ陣の一人だったりするのである。
 編集者というのは、そうした競技者としての過去を持たないコーチに似ているのだ。小説を理論的に分析し、あるときは、文学賞などの型として考えたり、また、あるときは、作家の目指す方向に合致した型について考えたり、あるいは、売れるだろう小説を分析したりしているのが、編集者というものなのである。
 小説を書く人を目指すのではなく、小説を書く人を支えるための仕事をしたいと望んで、その研究をしているのが編集者なのだ。
 スポーツ医学からアプローチしているコーチが人体の仕組みについてアスリート以上の知識を持っているのは、これは当たり前のことだ。同じように編集者は作家以上に小説の仕組みについての知識を持っているものだし持っていなくてはならないのだ。
 では、プロ野球選手の医学アプローチをしているコーチに速球が投げられるのか、ホームランが打てるのかと言えば、それが無理なことは誰にでも分かるだろう。ただし、その人たちは、きちんとしたフォームで投げたり打ったりすることは出来るのだ。その球はキャッチャーミットに届かないかもしれないし、その打球はボテボテからもしれないが、そのフォームは正しいものなのだ。
 筆者は作家になりたい人に、何が書きたいのか、と、尋ねてきた。書きたいこともないのに作家になりたち人は、絶対に作家にならないほうがいい。では、編集者にも書きたいことを尋ねるのか、と、言えば、そんなことを尋ねたことはない。代わりに、編集者には、常に、何が読みたいか、と、尋ねている。編集者というものは、書きたいのではなく、読みたいものなのである。
 いい作品を読みたい。好きな作品を読みたい。ただ、それだけなのだ。いい作品を書きたい気持ちなのどないのだ。作家じゃないのだから。
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