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2022年06月02日16:37

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迷子の美学、その10

常に反省し、他人の意見には素直に耳を傾け、謙虚に忘れるのが迷子だ。

 自分の意見を絶対視して、他人の意見をいっさい受け付けない頑固者は、それが格好良いと信じている。格好良いと信じて頑固なほどに疑わない。格好悪いのだ。
 他人を信じられないようでは迷子など出来ない。迷子というものは最後には他人の、それも、赤の他人で、二度と会わないような縁の無い他人の意見に従って目的地に辿り着くことになるのだ。
 ところが、筆者の迷子に同伴する人の中には、どうして筆者は親切に道を教えてくれた人の言うことを聞かないのか、と、言う人がある。聞いている。納得もしている。その通りに行動しようとしている。しかし、忘れてしまうだけなのだ。
 言っておくが、筆者はテレビゲームなら、ほとんど迷子にならない。その昔のダンジョンゲームなど画面に地図など出なかったので、早々に道を覚える必要があったが、それを覚えるのは得意だった。では、どうして現実世界では迷子になるのか。その理由はかんたんなのだ。所詮はテレビゲームの意外性など大したものではないからなのだ。どんな恐ろしいモンスターもモニターからこちらには出て来ない。
 ところが、現実世界は違う。曲がるべき道の先に消防車など停まっていたら何事かと思う。それを見に行く。そのために曲がるということを忘れるのだ。まっすぐに行くべき道の交差点の左先に不思議な店が見えたりすれば思わず曲がってしまう。古書や古物には特別に弱い。
 筆者は他人の意見を信じることをせずに常に自分の信念だけで歩いている、と言う人があるのだが、まったく違う。筆者は他人の意見にも素直に従うが、自分の感性にも素直に従うだけなのだ。あっちの方が面白そうだ、そっちは危険そうだ、あれは何だろう、あの店は美味しいものがありそうだ、と、その直感で進んでしまう、素直なのである。
 ゆえに、筆者は、きちんと自分の行動を反省している。常に反省している。たかが三毛猫見たさに曲がってはいけなかったのだ、和菓子屋の看板につられて曲がるべき交差点を通過してはいけなかったのだ、急に信号が青にかわったのでラッキーと思って渡る必要のない交差点を渡ってはいけなかったのだ、と、常に自分の行動を反省している。素直に間違いを反省している。ただ、反省を次に活かせないだけなのだ。
 先日も、道を尋ねた直後に、お洒落な喫茶店を見つけたので、そこを左に曲がって、と、言われたのに直進して、その喫茶店に入った。外装もお洒落なら内装もお洒落だった。その上、音楽の選曲が良く、コーヒーも美味しかった。コーヒーが美味しいだけに、せっかく教えてくれた道のことなど忘れてしまった。しかし、少しも困らなかった。何しろ、どこに行こうとしていたのかも忘れてしまったていたのだから。
 これは余談なのだが、こうして、そのことを書いている今も、なお、あの時、どこに行こうとしていたのかが思い出せていない。さらに、お洒落なあの喫茶店がどこにあったのかも忘れてしまっている。店名ぐらいメモすればよかったと反省はしている。メモだけでも、と、この反省は、もう無限の数だけしている。しかし、それも、また、迷子の楽しみなのだ。刹那の出会い、刹那の別れこそが迷子の美学なのだ。そして、素直に反省し、謙虚に忘れるところに迷子の美学はあるのである。
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