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2022年06月01日15:30

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迷子の美学、その9

木を見たら森は見ない、森を見たら木は見ない。

 他人の車の助手席に乗っていたとき、その人のカーナビの使い方に驚いたことがある。何とその人は広域の地図を表示しながら目的地に向かい、目的地に近くなると倍率を変えて行ったのだ。筆者は迷子症なので、カーナビは販売とほぼ同時に購入し、それ以来、ずっと使っている。しかし、走行中に倍率を変えるということは、思いつきもしなかった。自分に適した倍率に設定したら、そのまま目的地に向かう。大きな把握は出来ないし小さな交差点では、どこを曲がっていいか分からない。帯に短し襷に長しの状態なのだ。
 なるほど目的地に近いほど倍率を上げるというのは便利なものだ。しかし、そうと知っても、なお、それをしない。面倒だというのもあるが、何よりも自分の方向感覚に自信があるからなのだ。その自信のために、毎度、酷い目に遇っていると言うのに、それでも、その瞬間には自信を持ってしまうのである。
 目的地に近づけば、およそ位置関係は把握したのだから、もう、大丈夫だ、と、そう思うので、詳細の地図など必要ないと考えてしまうのである。もちろん、それが原因で迷子になる。必ず迷子になるのだ。
 しかし、どうだろうか。その昔、地図は紙だった。紙の地図では倍率を変えることなど出来なかったのだ。もちろん、拡大図も掲載されてはいたが、せいぜいが二種類の倍率だった。それでも昔は目的地に辿り着いたのだ。それが大丈夫、と、そう思う根拠なのだ。
 また、あまりに地図を拡大してしまうと、筆者は、地図と同様に頭の中も詳細な見方に切り替わってしまうのだ。ようするに、真っ赤なポルシェが地図にない、とか、倒れたスナックの看板が地図にない、とか、電柱の根本の長靴が地図に無い、と、そう考えるようになるのだ。つまり、頭の中の地図情報が詳細過ぎて全体を把握することが困難となってしまうのだ。
 ところが、逆に、西に向かうとか、五百メートル先とか、ビルの屋上の看板などという大きな目標物を意識すると、交差点名や住所の看板を見なくなってしまうのである。西と言われれば西に向かい、五百メートルと言われればその距離の感覚だけ進み、ビルの屋上の看板と言われれば、そこばかり見て進んでしまうのである。たとえ西に向かったり、五百メートルを歩いている途中だったり、ビルの看板を見ながら歩いているその間だったりしたところに目的地があっても、平気で通り過ぎてしまうことになるのである。
 大局を見ては小事を忘れ、小さいことを気にかければ大局を見失う。バランスが悪いのだ。しかし、バランスが悪いからこそ迷子になるのだから、迷子であるかぎり、それは仕方ないことなのだ。
 そもそも、シンメトリーのどこに芸術性があるだろうか。芸術とは優れてアンバランスな状態のことを言うのだ。バランスよく歩き、小器用に情報を修正しているようでは、迷子の贅沢は味わうことが出来ないのだ。
 右足と左足、右脳と左脳、それらは適度にアンバランスのほうがいいのだ。もちろん心も同じだ。偏ってこそ心は美しい。
 木を見て森が想像出来るようでは迷子の美学は分からない。分かる必要があるのかどうかは筆者には分からない。
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